YouTubeとTikTokが生んだ希望の光と混沌の闇
今日のお昼頃、新元号『令和』が発表されましたね。
まだ呼び名には慣れないとは思いますが、元号の善し悪しは実際に使ってみないと分からないものなので、ここで判断する必要もないのでしょう。
というよりも既に決まったことで変わることもないのだから、どんな元号になろうが我々国民、ひいては世界はそれを受け入れるしか道はありません。
無駄に騒がず、それをそれとして受け入れることが、今我々にできる最善のことではないでしょうか。
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という無駄な前置きは置いといて。
今の世は『 SNS時代 』
2004年にmixi
2007年にYouTube
2008年にTwitter
2010年にFacebook
2011年にLINE
2014年にInstagram
2017年にTikTok
というタイミングでSNSや動画配信サイトが日本に入ってきて、瞬く間に全国に広まっていきました。
今では
国内 海外
Facebook ⇒ 2,800万人 22億3,000万人
Twitter ⇒4,500万人 3億3,500万人
LINE ⇒7,600万人 2億1,700万人
Instagram ⇒2,900万人 10億人
と国内でも2人に1人、4人に1人はSNSを使っている計算になります。周りを見渡せばみなインスタ映えのために写真を取り、企業もインスタ映えのための商品を開発し、芸能人を見ればみなすぐに写真や動画を撮ってTwitterに上げ、LINEで友達にも報告する。それほどまでにSNSは我々の日常に深く浸透しているのが今の現状ですよね。
そこに誰も異論はないはずです。
YouTubeやTikTokが起こした革命
世の中の流れはさらに動き、『写真』の時代から『動画』の時代に流れていきました。
YouTubeでは1日に10億時間の動画が視聴されています。
10億時間は年数で言えば11万年。その年月を過去に遡れば、ホモ・サピエンスがアフリカ大陸に渡ったくらいの時期にぶつかります。
それほどまでに日々世界中では動画が見られているわけなのですが、実はYouTubeやTikTokなどの『動画配信系』が起こした革命は、それだけではありません。
最も注目すべきなのは、YouTuberやTikTokerなどの台頭によって『一般人が有名人になり得る希望の光が差した』ことなんです。
彼らは誰もが見るSNSの中で圧倒的なフォロワー数・閲覧数を誇り、絶大な影響力を持ち合わせている、いわゆるインフルエンサーと言われる人達のことですが、このインフルエンサーという人達の内訳が今までと大きく変わったんですね。
今までのインフルエンサーはタレントや俳優、芸人、読者モデルなどの『何かしら突出したものがあった人達』のことを表していました。
彼ら彼女らは、テレビや雑誌という巨大なメディアに露出できるだけの〝なにか〟を持った人達だけでした。インスタグラマーにしたって、ファッションセンスがズバ抜けていたり、圧倒的な写真技術・動画編集技術であったり、すれ違いざまに振り向いてしまうような美男美女達などの『自分だけが持っている素晴らしいモノ』を使って影響力を欲しいがままに手に入れていました。
しかしこれが、YouTubeやTikTokによって打ち壊されました。
いつも一緒にいた友達、クラスで隣の席だった子、近所で見たことある先輩、パッとしないアイツ、忌み嫌われていたコイツ。そんな子達がネットの動画を通して絶大な人気を誇り、インフルエンサーとして持て囃されて始めたんです。
しかも彼らは自分の持ちうる武器ではなく、誰かの音源や振り付け、誰かが創造したモノ、生み出された映えスポットなどの『他人の影響力を借りる』という手段を用いて自分の影響力を増していっていたんです。
それは今までの〝インフルエンサー〟の常識が覆された瞬間でした。
そしてその瞬間は、一般の人達に『わたしでもなれるかも』という希望の光が差した瞬間でもあったんです。
〝バズ〟が生んだ混沌の惨状
「一芸がなくても誰かの影響力を借りればインフルエンサーになれる!」そんな考えを胸に『わたしでもなれるかも』という希望の光に魅せられて、多くの子達がYouTubeやTikTok、Twitterなどに動画をあげ始めるようになりました。
ある子はYouTuber達の動画やターゲット層を分析して自分なりに工夫したり、ある子は既に有名なインフルエンサーとコラボしてダイレクトに影響力を増やしたり、またある子はただ自分の思いつくままに動画をあげていきました。
「ウケるかわからないけどもしかしたら...」そんな想いでどんどんと動画が量産され世に打ち出され、多くの人がそれらに時間を消費していく。それは徐々に混沌とした世界に変わっていきます。
「誰でも投稿できる」
とは一見甘美な響きにも聞こえますが、それが表すものは『クオリティの低下』です。
以前のYouTubeでは『プロ並の人しか動画をあげてはいけない』というような暗黙の空気が流れていました。だからこそ一定レベルの動画クオリティが保たれていたのですが、この空気がなくなった今、欲望にまみれた有象無象たちのおかげで惨憺たる現状になったのは、誰もが知るところでしょう。
その最たる例が、ご存知「バイトテロ」です。
あれは別に「給料が低いから」とか「その職場に恨みがあるから」とかそういった類いではありません。
少なからずそういう想いがあろうと、そこがメインではなく、本質的には「バズりたい」という低俗な欲望の可視化です。その欲望に囚われているが故に、後先も考えず悪ふざけの動画を投稿して閲覧数を伸ばそうとした結果がまさにあれなんです。
文章というだけでTwitterも変わりはしない
もちろんTwitterでもそういった悪質な動画は増えていますし、混沌さも目に見えて増えています。
しかしこれは別に動画だけに限ったことではありません。
誰でも発信ができるという点において、Twitterだってブログだって変わりはありません。『誰かが見て影響力が手に入る』『自分でもできる可能性がある』という2点がある限り、自分の欲望を満たす為だけに使う人がいなくなることはないでしょう。
誰かの迷惑を考えずに発信する。他人への配慮なしに刺々しい発言をする。自己責任論を振りかざして好き勝手勧めるなど、低俗な人達は後を絶ちません。
ただ悲しいかな、そういった自己中心主義の浅い世界で生きている人でも、影響力はつくのが現状です。そしてそれに影響されて浅い人達が集まり群れとなり、一定の人達に向かって石を投げて傷つける。そこに悪びれる様子はありません。
なぜなら彼ら彼女らは自分のために生きているだけで、他人がどうなろうが知ったこっちゃないんですから。
※ここでいう自分とは『自分と身内の狭い世界』を表します
大きな光には必ず深い闇があることを忘れてはいけない
偉大なるフォースにだって暗黒面があります。
そして自分では意図せず、気付かぬ内に暗黒面に足を突っ込んでしまっている可能性だってあるんです。
ダース・ベイダーに成り果てたアナキンのように。
もちろん、こんな大層なしょうもない記事を書いている自分でも、誰かから見れば暗黒面側に属しているように見えるかもしれません。
どの世界・角度・視点から見るかでその結果は変わりますし、Aくんからすれば正しい行いをしていても、Bさんからすればそれは間違った行いかもしれない。
多様な価値観で成り立っているこの世界では、そんな矛盾が当たり前のように起こるんです。
だからこそ、間違っても『自分は常に正義の側にいる』という慢心に浸らないことが大切なんです。
「この投稿が誰かを傷つけてはいないか?」
「自分のためだけになってはいないか?」
「これを見た人がどんな気持ちになるのか?」
それらを考えずに発信してはいませんか?
どんな投稿だって傷つく人は出るかもしれないし、批判がきたり嫌われたりするかもしれません。それはしょうがない。
ただ、その数を減らすことはできます。
第三者の視点でもう一度見ること。批判的思考(クリティカル・シンキング)で見直すこと。たったそれだけのことで、傷つける人を減らすことができるんです。
「アンチの意見は無視だ!」なんて言う虫のいい話を信じて、自分に対するサイレントクレーマーを増やすことに何の意味があるのでしょうか?
たった1つの配慮
それだけで誰かの世界が救われるかもしれない。
そんな今の世界に、あなたは生きているんです。
誰かのためになるよりよい発信のために精進させて頂きます。