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川端龍子と会場芸術 その4
「川端龍子と会場芸術」の4回目です。
名残惜しいですが今回で最終回!
のっけに宣言しておくことで自分を牽制する大作戦でしたが
ただただ長文と化しました。
初回はこちらから。
川端龍子の鮮烈さをご紹介した「その1」「その2」
会場芸術が生まれた背景のお話「その3」
会場芸術とは川端龍子の代名詞でもありますが
龍子がおらずともいずれ発生していたでしょう。
今回は少し真面目に「アートと鑑賞の関わり」に触れてまとめと致します。
これまで床の間芸術と会場芸術なるワードを交えてお話してきました。
ついでながらもう1つ「卓上芸術」というものがあります。
卓上芸術
「手に取って鑑賞する」ミニなサイズの絵。
会場芸術・床の間芸術と異なるのは、鑑賞者の目線が俯くところ。
版画や画帖を手の中で愛でるものです。
卓上芸術を命名・提唱した立役者は鏑木清方。
清方は龍子の7歳上、挿絵画家という面でも龍子と似通う点がありながら
会場芸術が世に問われるその中で、立面ではなく掌中で鑑賞する美しさに着目しました。
いけいけどんどんな龍子と好対照のいぶし銀!
絵草紙や版画といった「印刷物」を対象としたのが画期的なところです。
今日私たちがヴィジュアルを楽しむのは圧倒的に「手元」。
ネットで公開されるアートの数々・写真・漫画・動画などなど。
これもある種の卓上芸術かもしれません。
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さて、床の間・会場・卓上と出揃いました。
もう少し詳しくそれぞれを見ていきますが、その前に。
そもそも絵を描くということは展示を前提としていません。
何かを記録したり、意思を表す手段。
印をつけパターンを楽しむデザイン。
「場」をしつらえる空間演出。
そうした記号・文様の展開が「絵」となり、
その中でも際立って美しいものが鑑賞対象とされました。
ですので、
どうにもデザインとアートは入り混じります。
(言葉の上ではその違いを割と端的に説明できるのですが)
以下、ちょっと混ざり合いながらそれぞれ解釈してみました。
●床の間芸術:インテリアデザイン寄りの絵画
・空間があってそこにしつらえられるもの
・特定の空間を特別なものにするための空間ファーストな絵画
一人で鑑賞するということもありますが、多くは私的空間での複数人による鑑賞です。
寺社仏閣などの障壁画も広い意味ではここにカテゴライズできそうです。
明治以降に和風建築が衰退、床の間不要論が巻き起こる中では掛軸スタイルは下火にならざるを得ませんでした。
●卓上芸術:個人で楽しむ汎用性の高い絵画
・一品モノではない出版物が卓上芸術のメイン
・複製可能であるがゆえに手元でまじまじと眺めることができる
こうなると複数人での鑑賞ではなく私的な鑑賞、個人の楽しみ寄りの絵画といえます。
たとえ空間演出のために描かれた障壁画でも来迎図でも、手のひらサイズで見るとエンターテイメントなコレクションの雰囲気。
(ミュージアムショップで名画がマグネットなどになっているのもそれに近い)
時と場所を選ばず鑑賞ができ、テクノロジーの発展次第で媒体を展開していけるという
タフさを感じる、小粒でもピリリと辛い系。
●会場芸術:作品ファーストの洗練された興行寄り絵画
・公的空間での複数人による鑑賞
・なおかつその空間は作品ファースト
私的空間ではなく公的空間、それも空間のための純粋に作品を鑑賞できる場所でみんなが見ようよ、というものです。
だいぶ端折りますが、ホワイトキューブ(真っ白壁の展示空間)が生まれた背景には「大衆に寄与する芸術を」という思想があります。
空間によりかかるのではない鑑賞スタイルを確立させました。
ただしある種、洗練された見世物の一面を感じます(悪い意味でなく)。
会場提供者という存在もあるため興行的な側面あり。
会場芸術と言えど、それはやはり「作品のための空間に飾られる」ことが前提になります。
と考えると、床の間芸術があの時代の洋画展示会場で相容れなかった理由がもう少し見えてきます。
「日本画を活かす展示とか考えたことないです」もありますが
「作品ファースト、ありのままのキミで来なよ!」
という場に
「いえ、自分、空間のために生まれたので…」
という滅私奉公気質でいったものだからそりゃあ…
ただ大観は西洋外遊の際に「琳派」ならば会場芸術でも太刀打ちできると考え、大正時代に「琳派ブーム」を起こしたようです。
実際に現代の美術館展示でも琳派は大人気。
成り立ちは空間ファーストの床の間芸術であっても、「荘厳」の流れを汲み、絵師自身の個性が打ち出されたものは映えるという良い実例です。
ただ美術館などの展示会場は、障壁画が本来演出しようとした「空間」ではないため「床の間芸術としての本領発揮が出来ているのかどうか」
それを考えると面白いところです。
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(ホワイトベースって言ってしまいそう)
まとめ
・空間あっての床の間芸術(公私の狭間の私寄り)
・時と場所に縛られない卓上芸術(プライベート)
・作品ありきの会場芸術(公私の狭間の公寄り)
まさに三者三様。
「鑑賞」を前提に描かれるものは
ある程度「見られる場所」「見られる人」を踏まえて作られるため
おのずと作風もそれに準じます。
その一方で、いまのアート市場は柔軟になってきました。
個人の楽しみにおける需要が増えた結果、
私的空間にも様々な「展示会場」が出現。
鑑賞する「場」は消費者にある程度ゆだねられ、
なおかつ作り手も展示方法の選択肢が増えてきました。
そうなると
「こう見てもらいたいからこういう媒体で描く」という逆算もでき
「今は会場寄りだけれど卓上寄りにしてみるか」というアレンジも可能。
そこまで意図的でなくとも「見せる場所」に少し意識を向けるだけで
割と作風が変わるものかもしれません。
それほどに密接な「アートと鑑賞の関わり」。
見られる場所、見られる人、そのために使う道具。
それらがぶつかり混ざり合うところで表現していくからこそ
創作は苦しく楽しいと言われるのだと思います。
これにておもむろに始まった会場芸術のお話はおしまいです。
最終回、いやに真面目に(そして長く)なりました。
とはいえ、
好きに描いたものがどこかで勝手に見初められて、まるで最初からあつらえたかのようにピッタンコカンカンな場所に出会うという、
かなりお花畑な展開を期待してしまうのもよくある話で。
ゆったりしたたかに、緩急つけてやっていきたいなぁと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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おまけ
あまり詳しく知らないので差し控えましたが、美術館も第四世代があるそうな。
作品ファーストでもなく空間ファーストでもない、人とモノと場所が融合した第四世代美術館。
(2018年のものですが、わかりやすい美術手帖さんの記事を参照ください)
これはある種、私的空間で複数人と鑑賞する床の間芸術を、公的な場で推し進めた形かもと思うわけです。
龍子から始まり清方も登場しましたが、存在感バツグンはやはり横山大観。
床の間芸術と相まって興味が尽きません。
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