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ショートショート 『蟹と歩哨』
時折、遠くの夜空にオレンジ色の光が閃いた。
遅れて爆発音が耳に届く。
「………今晩は派手にやってるじゃないか」
振り返り、顎髭の兵士が言うのに、丸メガネの同僚は唇をゆがめた。
「俺たちには関係ねえ。ヒラの兵隊なんかには」
「ああ。しかし上のほうは大騒ぎらしいな。ジャーガル地区じゃあ、なんでも投降した部隊の将校たちが、その場に並べられて銃殺されたって」
「気狂い同士のやるこった。戦時法なんて綺麗ごと、守られたためしはねえよ」
「違いない」
顎髭は言い、眉をひそめた。「それでも、やっぱりアレは片付けておいたほうが良いんだよな?」
「これは誰がやった、なんて目に遭いたくはねえだろう?」
丸メガネは言った。「入ってくる奴らは、こっちの弱みを探しまくるに違えねえ」
「………そうだな」
顎髭はうなずいた。
ふたりは歩哨任務の境界にあたる、ガジュマル林近くに来ていた。亜熱帯の植生に棲む生き物たちの気配がする。緩んだ土を踏む軍靴に、ガサガサと暗い茂みの中に逃げていく。
「あの辺りだったな」
顎髭が、細めた懐中電灯で小さな流れが左に蛇行する先の岸を指した。
茶色く伸びた木の枝が垂れ下がって川面に触れ、月影を砕いている。
「お前がいちばん覚えてるだろうに」
丸メガネが言った。「俺は良く覚えてねえ」
顎髭はちらと同僚の顔を見た。
「他人事のように言うじゃないか? 先に、あの娘に声をかけたのは、あんただっただろう」
「そうだったか?」
丸メガネは言った。「どうでも良いだろう、そんなこと。さっさと始めようぜ。次の交代まで二時間しかねえんだ」
話を続けようとする顎髭から離れ、スコップを手に下草をかき分けていく。目じるしは、ムンクの絵に似た樹洞を持つ、大ぶりのガジュマルだ。
「………覚えているくせに」
顎髭はつぶやき、丸メガネの後に続いた。
「こんなに深く埋めたかな?」
1メートルほど掘ったところで、顎髭は言った。頬を伝った汗が髭の先からしたたり落ちる。
「先週、ひでえ雨が降ったよな。山のほうから土が流れてきたんじゃねえのか?」
自分のスコップに寄りかかり休んでいた丸メガネが言った。
「どこかに流された、ってことはないよな?」
「分からねえ、そんなこと。………退けよ」
這い上がる顎髭に代わって、丸メガネが穴に飛び降りた。
「クソが」
言いながら、穴の底にスコップの先を突き立てる。動きをとめ、同僚を見あげた。
「あったみたいだぜ」
スコップを寝かせ、土を払いのける。
「ぐ………」
顎髭は後退り、小さくえずいた。この地域特有のねっとりとした大気に、生き物の腐敗した臭いが広がる。
「くせえな」
言いながら、丸メガネが土を横にはね除けた。
月光を反射しながら飛ぶものがある。ひとつではない。それは穴の脇に落ち、敏捷に動いて消えた。
「何だ?」
顎髭が聞いた。
「蟹だな。………娘を食ってやがる」
丸メガネは言った。「どうやらお食事中のところを邪魔したみたいだ」
逃げようとする蟹を、丸メガネは靴底で踏み潰した。
パチ、と蟹は弾け、内臓を撒き散らしながら泥に混じった。
顎髭は口を押さえた。
夜の林に、音がする。
ザワザワ、クチクチ、カチカチと。数え切れないほどの蟹が、娘の死骸を貪り食っている。髪に安っぽい花飾りをつけ、陽に焼け丸々した頬で微笑んでいた娘だ。俺たちはそれを汚し、本部にバレるのを恐れ、殺して埋めた………。
「畜生め」
丸メガネはスコップの背で、名も知らぬ娘の骸から蟹どもを弾き飛ばしている。赤黒い腐肉と蟹が混じって、そこら中に飛び散った。
「………やめろ」
顎髭は手をあげた。「やめてくれ」
「あ?」
丸メガネが顎髭を見た。
「何を言ってやがる。どうせ、バラすつもりで来たんだ。こいつらがちょいと先に手伝ってくれただけじゃねえか」
メガネの端についていた肉片が垂れ下がり、土に落ちた。それは娘のものか、蟹のものかも分からなかった。
「これ以上は罪だ。このまま埋めておこう」
顎髭はレッグホルスターの銃に手を伸ばした。指先が震えていた。
「根性のねえ奴だ」
それを見ながら、丸メガネが笑った。「そのくせ、他人のおこぼれはちゃっかりいただく。お前のような奴が、いちばん汚ねえんだ。どれ、べっぴんさんの腐り具合を見てみようじゃねえか」
「やめろっ!」
顎髭は叫んだ。
丸メガネが、大きく目を見開いた。
丸メガネの足元が動いていた。
それは、無数の小さな蟹の向こうから伸びてきた。
手だった。赤黒く変色して腫れ上がった手が、丸メガネの足首をつかんでいた。
「ああああ?」
丸メガネがバランスを崩し、穴の中に尻餅をついた。下敷きになった蟹たちが音のない鳴き声を発しながら四方八方に逃げる。
「んなわけねえ!」
丸メガネは叫び、斜面に肘をつき後ろ向きに穴をよじ登ろうとする。手を蹴り飛ばす。
しかし蟹どもの中から出た腕は長く長く伸び、丸メガネを逃がそうとはしなかった。
顎髭は、ただ見ていた。
蟹だ。蟹だ。蟹だ。蟹に食われているんじゃない、あの娘が蟹なんだ。俺たちが戻ってくるのを待っていた。凶暴で長く伸びる腕を得て………。
腕が激しく動いた。
「あああああ!」
丸メガネの腰が、上半身とは別な方向に捩れ、回転した。パキ、っと音がして、あり得ない体勢になる。壊れたセルロイド人形だ。逃れようと、土に立てた指から爪が剥がれる。
「………」
顎髭は、蟹の群れの向こうに小さく光る目を見ていた。
悪夢は、突然終わった。
遠くの基地を攻撃していた粗悪品の誘導弾が外れ、攻撃予定になかったこの林に落ちた。
「そうか」
顎髭は口を開け、夜空を見ていた。
………救いなのか? これは。
オレンジ色の光に包まれ、ふたりの歩哨は霧散した。