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ショートショート 『笑い女』

 ゆっちゃんの名前は優子だが、幼稚園の頃から自分のことを舌足らずにゆっちゃんと呼んでいた。
 今日、ゆっちゃんはね、ブランコのところでアリジゴクを見つけたの、でね、でね、もう一匹、ちっちゃなアリジゴクを探して、その巣に入れてみたの、ママ、どうなったと思う? といった具合だ。
 だから、幼稚園からの友だちや先生はもとより、家族の皆も、優子をゆっちゃんと呼んでいた。

 小学校のグラウンドには、春の風が吹いていた。
 ゆっちゃんと友だちの怜ちゃんは、フェンス近くの低い鉄棒に背中を預け、高学年の男子たちが、ゴロゴロをして遊ぶのを見ていた。その中には、ゆっちゃんのお兄さんのトモくんもいた。
「あれ、馬鹿だよね」
 腕組みをして、彼らを眺めていた怜ちゃんが言った。
 ゆっちゃんはうなずいた。
 この乾いた季節、砂が舞うグラウンドに横たわり、男の子たちは遊びの名の通り、ゴロゴロと端から端まで転がっては、その順番を競っているのだ。
 もちろん、髪も顔も服も真っ白に、ごわごわになる。休み時間が終わったときには、誰が誰か分からなくなるほどに。
 ゆっちゃんは図書室の図鑑で、アフリカだかどこかで裸で暮らしている人たちが、そういう砂だらけになっている写真を見たことがある。でも、あの人たちは、理由があって砂まみれになっているんだろう、トモくんやその友だちのように馬鹿な遊びではなく。

「ゆっちゃん、逆上がり、できるようになった?」
 ゴロゴロを見飽きた怜ちゃんが、ゆっちゃんに聞いた。
「ううん、もう少しかな」
 ゆっちゃんは答えた。
「日曜に、公園でパパに教えてもらったけど、背中を押してもらわないと、まだ」
「だよねえ」
 怜ちゃんは薄桃色の頬っぺたをさすりながら言った。「鉄棒、嫌い」
「あたしも」
 ゆっちゃんはうなずいた。
 大体、前回りにしたって、この先、何かに使うとも思えない。ママが前回りをしたり、逆上がりしたりする姿なんか見たことがない。
 体育の先生以外の大人が鉄棒を使っているのを見たのは、公園の隅っこにあるおかしな形の鉄棒に、坂井さんのお爺さんが、ゆらゆら二時間くらい下がっていた時くらいだ。ママは、坂井さんのお爺さんは、ちょっと頭がぼんやりしているって言ってたけれど。だから団地祭りの夜にどこかに行って、戻ってこなかった。坂井さんでは、さっそく次のお爺さんを連れてきて、今は仲良く暮らしている。

 職員室の窓に、鳩みたいに並んだ先生たちが大声をあげた。
 ゴロゴロを注意しているんじゃあない。
 どうやら先生たちは、どの子が一等になるかで賭けをしているらしい。月曜に一等になったトモくんが言っていた。下校のときに、教頭先生に呼び止められ、駅前の喫茶店で、バナナチョコレートパフェを奢ってもらったって。ゆっちゃんなら、マスクメロンパフェを選んだだろうが。
「ゆっちゃん、なんか聞こえない?」
 怜ちゃんが言った。
「何?」
 聞き返したゆっちゃんの顔の前に、
「しーっ………」
 指を立てた怜ちゃんが、おかっぱの中で耳を傾けた。
 ゆっちゃんが真似をすると、春のちょっと冷たい風の向こうに、小さな笑い声のようなものが聞こえた気がした。
 ゆっちゃんと怜ちゃんはフェンスのほうを振り返った。

 ちょうど、旭町銀座の商店街の角を、女の人たちが曲がってきたところだった。マイバックやレジ袋を下げている人もいる。人数は、うちのクラスの全員くらいだろうか?
「あれ、何?」
 怜ちゃんが言った。
 買い物帰りの人たちが珍しいわけじゃない。怜ちゃんが尋ねたのは、女の人たち皆が、一様に笑っていることだった。
 風の向きが変わって、今度は笑い声がはっきりと耳に届いた。
「おばさんたち、何やってんの?」
 こちらに近づいてくる一団に、ゴロゴロを中断した男子の一人が言った。砂で白い猿のようになった子供たちは、そこに立ち上がり、笑う女たちを見ていた。
「………お母さん」
 怜ちゃんがつぶやいた。
 確かに、右端から3番目、肩までの髪にクリーム色のワンピースを着た女の人に見覚えがあった。怜ちゃんの家に遊びに行った時、おやつに紫色のゼリーを出してくれた人だった。
 もちろん怜ちゃんのお母さんも笑っていた。とてもおかしそうに、大きな口を開き、奥歯に被せた金属を陽の光にきらめかせ、こちらを直視したまま。
「今日、何かあったっけ?」
 ゆっちゃんは言った。授業参観なら、先生がプリントをくれたはずだから、お母さんたちだけの話し合いがあるのかもしれない。前、山本先生と誰かのお父さんのフリンがバレた時みたいに。あの時は、体育館での決闘で片付いたってママが言っていた。
「………知らない」
 泣きべそをかいた怜ちゃんが答えた。
 その間にも、笑う女の人たちは近づいてきて、もう学校を囲む緑のフェンスのすぐそこまで来ていた。様々な種類の笑い声が空気を揺らして、頭の芯まで入ってきた。耳をふさぎたくなる。
「あっ!」
 ゆっちゃんは声をあげた。
 校門近くで、フェンスの金網に顔をおしつけ、鼻を歪めながら笑っているのは、ママだった。どんどんやってきた女の人たちも、皆、フェンスごしに、こちらを見ながら大笑いしている。人形の目をしたまま。
 押し合いへし合いする笑い女たちに押され、フェンスがグラグラ揺れた。ゆっちゃんのママは、後ろから押され、顔の肉を網の形ではみ出させている。
 今朝、家を出る時、ママは「今日はハンバーグよ」って言ってたけど、作れるのかな?

 ゆっちゃんは考えていた。

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