バックヤード:山本周五郎『朝顔草紙』の不可解
朗読系ポッドキャストで、山本周五郎の『朝顔草子』を聴き、ふむふむ良くまとまった綺麗な物語だなあ、と思っていたが、ふた晩経ってモヤモヤしてきた。どこか不可解なものがあるんだよなあ。
沼尾ひろ子さんに感謝します。
で、文庫本を再読し、不可解な点を整理してみた。
以下、俺が不可解だと思う点。初出は昭和13年の『講談倶楽部』。
なぜ実際に直諫し、暇を出された父の信右衛門本人ではなく、息子の信太郎が佞臣の殺害に向かわねばならないのか?
信太郎が、あっさりと父の指示に従った点。許嫁を連れ帰るにしても迷いがなさすぎる
15年前に誅すべきであった神尾を、今になって殺害に向かう遅さ。最近の噂を聞いたからというのでは、父、想像力がなさすぎ
主人公は、許嫁であった文絵をずっと思慕していたにしては、この話が出るまで、何もしていなかった点。のんびり屋さんか?
状況をここまで悪化させた藩主の暗愚(神尾による槍奉行の暗殺などに気付かぬはずはない)や家臣たちの責任は、どうなっているのか?
姿形を覚えてもいない許嫁が死んでいたことを聞かされ、一生、妻はもたないと誓う主人公の極端さ
すでに藩を離れている主人公と父親には、神尾の殺害に関し、私怨以外の正当性がない点
政治的かつ平和的な解決を放棄し(「手段は選ばぬから仕留めてこい」って)、実力行使のテロルで暗殺を成功させ、「良し」とする点。まあ、合法的な悪行にはそれしかないとしても………
文絵が盲目になっている点
まあ「そういう時代を前提にしているから」と言われればそれまでなんだが、俺にはこの物語の不可解さのベースは、「登場人物が、観念の乗り物になっている」ことにあるんじゃないか? と思ったりもする。
山本周五郎を何作か読めば分かるが、登場人物、特に主人公は「ある種の観念に取り憑かれた人間」であることが良くある。
その「観念」の内容=コンテンツ自体は(ある程度)何でも良い。隣人愛でも、武士道でも、生真面目さでも、愚直さでもOK。
山本周五郎は、「ある観念に取り憑かれた人間が、世間からとやかく言われながらも、観念に従い全うする」姿が好きだったんだろうなあ、と思う。
ただし、通常、観念と世間は食い合わせが悪い。
観念は原理主義や純化を志向するが、世間は多種多様なノイズを含む。観念を貫こうとすれば、世間との軋轢はまぬがれない。
「武士道」を前提に成立している世間があるとしても、それには程度がある。実際に「武士道」を純粋に貫こうとする人間がいれば、かなり迷惑である。この「武士道」を「隣人愛」や「滅私奉公」とかに変えるのも可。
『朝顔草子』の、なぜだか父親から「三代相恩の責」と言われ、ロケットスタート的にテロルに向かえる信太郎の不可解は、俺という世間(含む)から見た「観念の純化に向かう人物は分からん」なんだろう。
最後に、鍵になると直感するのは、「許嫁である文絵は、なぜ盲目になっていなければならなかったのか?」だなあ。どこか取ってつけたような感じもある。そういう謎要素は、どこか重要なものを含んでいるんじゃないか? と思ったりもする。以下、考えてみた。
「見る」と「見られる」の関係の切断
信太郎は文絵を見ることができるが、文絵は信太郎を見ることはできない。「見る」:「見られる」の関係で、二人は相互を所有する。しかし、文絵は「見る」をできなくされている。彼女は信太郎を完全に所有することはできない
信太郎は一方的に「見る」ことで、文絵を所有する。もちろん、彼女の世話を焼くという代償を前提に
信太郎が限界づけられるのは、あくまで彼の「思慕や愛情」という観念に対してであり、生きた文絵に対してではない
文絵という世間が侵入してくるのを阻止するため、一度は彼女を「死んだ」ことにした
次に「盲目」という設定で彼女の所有による信太郎の鈍化(良いのか、この言葉で)を防ごうとしている
文絵は、「文」と「絵」であり、ブツそれ自体ではなく、物を描写したもの=抽象化された存在である。彼女は信太郎のために視力を奪われ、「脱世間」を強いられている。ひどい言い方だけど
小雪としての言葉「一度お目にかかりたい、ひと目お会いしてから死にたい」は、「見ることによる所有」の願望を吐露している。そして、その願望は信太郎を鈍化させるが故に、彼女は視力を奪われる
と、ゴチャゴチャ考えたが、俺的には、この短編の不可解さの原因がちょっとは見えた気がしてきた。先にあげた不可解要素すべてを説明できたとは言わないけどね。
世間という雑多な場所に観念を移植した物語を作ろうとすれば、こうなるのかなあ、って感じだ。