「群盲象を評す」から考えるショパンコンクール
ショパンコンクールで盛り上がっているこのところの音楽界隈。SNSが盛んなこの時代では、場外戦もかなりの熱気になっている。世界を見渡せば色々な弾き方や解釈があり、このレベルにもなると、どの演奏も、借り物でない奏者本人の内側から感じた言葉で音楽を語っていて、音楽を通すフィルターが皆それぞれの磨き方をされていて、とても感動する。
「群盲象を評す」という古くから伝わる話がある(内容詳細はここでは割愛)。目の見えない何人かの人が、象を手で触り、それぞれ自分が触ったところだけで『象とはこういうものだ!』と主張する。これが差別的だということで現代ではあまり語られなくなったらしいが、私がまだ20代くらいだったころ、亡き恩師からこの話を教えてもらい、それ以来、この象の話と音楽の話を色々と結びつけて考えるようになった。
本来のこの話の解釈の仕方は、『物事の一部分のみで、それが全てだと思い込み、自分が正しいと主張する愚かさ』『全体ではなく一部のものだということに気付かずに、お互いに批判し合う人々の虚しさ』こういったところだと思う。
音楽に置き換えたときも、様々な面で同じことが言える。だがこの話でいつも思うことが。例えば『象とは細長い紐のようなものだ!』と主張した人。自分の感じていることだけが全てと思い込むことは危険ではあるけれど、象の尻尾だけ直接触ったその人にとっては、真実の話だよなと。この話に出てきた人たちは、争いだしたから、目が見えている人から愚かに見られたかもしれないけれど、この見えない数人がお互いに『おい、おれの触ったとこは太かったぜ(脚とか)』『私の方は平べったくて大きかったわ(耳とか)』みたいに意見シェアしあったら、話は変わってたよなとか。
少なくとも、直接触らないで遠くからやんややんや言っている人より、直接触れている実感やそこから感じられるものについては、きっと語ったときの説得力や伝わるものが違うよなと。見えているかと、象に直接触っているかどうか、、それも大事だよなと。極端だけど、象の研究者並みに世界中の象について知識があるけど実際の象は遠くからしか見たことがない人と、毎日象に触って匂いを嗅いで尻尾で叩かれて餌をあげているけど、その一頭のことしか知らない人と。知っていることの種類がきっと違う。
そしてこれを考えたあと、よくこのことを考える。自分は音楽に直接触っているかな、と。
音楽に直接触る、とは象の話を用いた比喩的な言い方だけど、逆に音楽に直接触っていない、ということを具体的に考えると多分、楽器に触っているかとか経験があるかとか言う話ではなく、『誰かが語る音楽についての知識や感想などを沢山沢山身につけて音楽全体を知った気になっている』ということかなと。誰でも陥いりやすい。勉強の過程でも起こりやすいし、指導力を上げようとセミナーをハシゴしていても陥りやすい。象の話は『全体が見えていない人をバカにする』ようにも捉えられるが、その『全体が見えているつもりになっている人』も逆にバカにされるかもしれない。
よく、音楽を地球のようにイメージすることがある。今の自分の立ち位置から見える地球なんて、どう頑張っても一部だ。世界中を旅したって限界がある。
だったら。行ったこともない国の話や本当は興味のない知識を並べてあたかも全体分かっている風に取り繕うくらいなら、本当に実体験として体感したことのある事実を、自分の言葉で語った方が、よほど説得力あるんじゃないかなと。
これが全て、とは思わない。他者を否定するつもりもない。ただし、自分の立ち位置から『自分で直接触った音楽』の、自分にとっての真実を堂々と語ることは、むしろ他者が音楽全体を知るための手がかりになるのではないかと。だってきっと、音楽の本当の全体像なんて世界中の誰も一生かけても分かりっこない。それなら、皆がそれぞれの立場から直接触れた『音楽』について、シェアしあえたら良いんじゃないだろうか。
現在、銀座山野楽器で月一開催している『ぴあのコラボLABO』では、そんなことも自分の中ではテーマとして心に思いながら毎回参加している。そのためにまずは、『直接自分で音楽に触れるためには、じゃあどうしたらいいか?』ということからかなと。アナリーゼ本の受け売りだけではなく、CDの真似だけではなく、それらからヒントを貰いながらも最後は自分で譜面から何かを読み取って発見出来た時、その演奏や指導は自分の言葉として語ったときに相手に伝わりやすくなる。私の場合は譜読みの仕方やコード起こしのアナリーゼが好きで、自分なりに音楽に触れる実感を持てる一つのきっかけパターンになっている。演奏の時は、アンサンブル的な耳やグルーヴを利用したり、ハモリや共鳴を意識すると音楽に『触れた』と思えて、これも自分なりの近道。音楽への触り方も、その入り口は沢山あるはず。不思議なもので、自分に合った方法で音楽に自分で触れた実感が持てると、誰かの正解をなぞったり、どこかの偉大な先生のお墨付きを気にしたりしなくてもよくなる。誰かではなく、音楽さん本人が直接自分に『OK!』と言ってくれる実感。音楽が自分をイタコとして採用してくれたような感覚。そして、その実感があるとなぜか、同じように音楽に別の角度から触っている人(イタコの別部署の人)と、争わずに意見をシェア出来るようになる感覚になる。
そして、常に自分の立ち位置が一部分であることを知っているからこそ、全体をもっと知りたくなり、知れば知るほど、また自分は一部分であると思い知らされる。でもその繰り返しの中で、自分の立ち位置から見える音楽の世界は確実に広がって深まっていく。その時にはすでに、きっと他者へはリスペクトの気持ちしかなくなる感じがする。
場外戦の激しいショパンコンクールの中、実際のコンテスタントはお互いの演奏に対しておそらく、リスペクトしかないような、お互いの立ち位置から『直接音楽に触れた話』をお互いに聴いてシェアして、感動し合っているように、勝手に感じて、勝手に感動している。
【オンラインセミナー開催のお知らせ】銀座山野楽器本店にて毎月1回行われている勉強会シリーズ『ぴあのコラボLABO(年10回)』、沢山のオンライン開催希望の声をいただき、今月末ついにオンライン開催が決定いたしました!5月から始まったこのLABOもお陰様で先月で前半折り返し点を無事に迎えることができました。今回はこれまでの5回の内容の豪華総集編!実際に皆で意見を出し合った中での新たな発見や実験結果(?!)を振り返りながら、『ブルグミュラー』と『バッハ』を題材に絞って譜面を宝地図のように一緒に読んでいきたいと思います。