女學生日乗ー怪談
あれは雷鳴轟く夏の終わり、雨降る放課後のことでしたわ。
わたくしは或る先生にお手伝いを頼まれまして、古い教材を旧校舎へと運ぶお仕事をしておりましたの。
一人では少し量があったものですから、わたくしは後輩の子達と荷物を分担して、戯れ合いながら廊下を歩いておりましたわ。
もう殆どの子は帰った後のことでしたから人影は無くて、硝子窓に雨が打ち付ける音はするのですけれども、他に聞こえるものといったら私達の話し声くらいのものでしたわ。
京紫の袴姿でそろそろと歩きます私達数人は、人気の無い淋しげな教室を目にしながら、薄暗くなった廊下で他愛のない話をしておりましたの。
その折、御髪を切りそろえました活発なKさんが――元来噂好きな子なのですけれども――「芙蓉さまは、こんな話を知っていらして?」と、わたくしに質問をしてきましたのよ。
「わたくし、お姉さまに聞いたことがあるのですけれども、旧校舎は、その――出るそうでしてよ」
「出るとは、一体何のことかしら?」
明確でないその話題に、わたくしはまた小動物か何かが教室に出たのかと思いましたから簡単に相槌をうちましたわ。そしたらKさん、勿体ぶるように声を作られて、
「青白い顔をして襟を左前にした花月巻の幽霊――お姉さまも以前ばったり出くわして慌てて駆け出したそうですわよ――」
「あら、さようでございますの――」
わざと怖がらせようという風な話し方をするKさんに、わたくしは素っ気ない返事をしたことを覚えておりますわ。
このお姉さまというのはKさんの実際のお姉さまではなくて、所謂『エス』と呼ばれる学内の特別な関係の方のほうかと存じますわ。ともあれ、わたくしはそういった類の話が得意ではありませんでしたから、その時は詳しく聞かずにさっさと別の話題に話を切り替えることにいたしましたの。
「Kさんはお姉さまと仲が良くて羨ましゅうございますわ。普段は他にどんなお話をされているのかしら?」
「そうですわね――わたくしのお姉さまは排球にお熱ですから、最近はその話に持ちきりですわ。わたくしも競技練習會ではご一緒させて頂いているのですけれども、芙蓉さまも如何かしら?」
「わたくしは――」
そこまで言いかけたときでしたわ。
ふと、生暖かくて気味の悪い感触が頬に纏わりつきましたのを感じて、わたくしは何事かと、思わず会話を止めて振り返りましたの。
他に人の居ない校舎で急にわたくしが立ち止まったものですから、SさんもKさんも少し驚かれた様子で、
「如何されましたの?」「御気分でも悪うございますの?」なんて心配そうな顔をしてこちらを覗き込んでまいりましたわ。
「いいえ。後ろから何かが触れたような気がしただけですわ。ごめん遊ばせ」
わたくしは決まりが悪かったので、何でも無い風を装ってそう返答しましたの。
「あら怖くなりましたのね? 可愛いわね、芙蓉さまは」
「芙蓉さまは心配性でいらっしゃるわね」と、その時お二人は怖気づいたわたくしを見て、くすくすと笑っておられましたわ。
そうしているうちに新校舎を抜けまして、私達は旧校舎へと続く渡り廊下に差し掛かりましたの。そこは建物同士を繋ぐために折れ曲がった作りになっておりまして、特にその日は雨の降りしきる夕暮れ時でしたから、灯りの無い渡り廊下の先には暗闇が広がっているように感ぜられましたわ。
わたくしは先程のこともあり、どうも気味が悪くなって少し入り口で尻込みしてしまいましたの。そしたら見かねたSさんが矢絣の平常服と可愛らしいマガレイトのリボンを翻しながら、
「華奢な芙蓉さまはここでお待ちになっていて。あとはわたくしがお運びいたしますわ」と、わたくしの運んでいた書類を自分の荷物の上に乗っけると、さっさと先に進んでしまいましたのよ。
そうして残されたわたくしは渡り廊下の先を見つめていたのですけれども、2人の子の姿はすぐに暗闇へと消えてしまって分からなくなってしまいましたわ。
わたくしは仕方ないので、曲がり角にある窓から旧校舎のほうを眺めて帰りを待つことにしましたの。
その時でしたわ。
鋭い雷光と轟音を響かせて、学び舎の近くに雷が落ちましたのは。
わたくしは思わず身を屈めて、その場から動けなくなってしまいましたわ。硝子窓には夕立の雨がにわかに強く叩きつけて、颱風のような風が木々を揺さぶるように切り裂くような風音を立てておりますの。
やっとの思いで窓枠に手をやって身を起こしますと、今度は窓の外ではなく暗闇の先、旧校舎の中が怪しく幾度か光を放ちまして、それと同時にKさんとSさんの甲高い叫び声が聞こえてきましたのよ。
そしてその声を追いかけるように、地の底から何かを語りかけるような、か細い呻き声がどこからともなく迫ってまいりましたわ。わたくしは身体が氷のように冷たくなって固まってしまったような心地で、声も上げられないほどでしたわ。
声にならない呻きが耳を掠めたかと思えば、冷たい手が頬を撫でるかのような感触。やけに生暖かい澱んだ空気が辺りに立ち込めていましたから、わたくしは為す術もなく、ただ這うようにしてそれから逃れようと画策するのみでした。
それでも尚戯れるかのように、重たくて血の通わないような沈んだ空気がわたくしを取り囲みますから、辛うじて灯りのあるほうへ身体を寄せた頃には、すっかり冷や汗でわたくしの顔も冷たくなっておりましたわ。
そうこうして渡り廊下の入り口で脱力しているわたくしの元に、漸く前方から血相を変えたお二人が逃げ帰ってまいりました。そのお顔を見合わせるまでとても長い時間が経ったかのように感ぜられましたけれども、兎も角、一目散にその場から逃れることに致しましたの。
私達は言葉を交わす余裕も持たず、袴を乱すことすら厭わず、一心不乱に教員室の前まで走りましたわ。追いかけるものはなく、傍から見れば人の居ない校舎の廊下をただ乙女3人が無作法に駆けていただけでしたでしょうけれども、少なくともその時、私達は残った力を振り絞って本気でその場から逃れようとしておりましたわ。
そして漸く、煌々と灯りの点いております教員室の前に着きますと、私達は緊張の糸が切れてしまい、崩れるようにしてその場に倒れ込んでしまいましたわ。
抱き合って震えているその様子が尋常ではなかったのか、お世話になっている先生が扉の向こうから心配そうにこちらを覗かれましたの。そしたら有り難いことに、廊下を駆けたことを咎められることもなく、何も聞かずに保護して頂きまして、私達は漸く落ち着きを取り戻しましたわ。
そうして、その雷雨の一日は幕を閉じましたの。
後日のこと――わたくしがその親しい先生とお茶をしている際に、この時のお話が話題になりましたの。
わたくしの感じた頬を撫でるような不気味な感触のこと、2人の子が暗闇の中で一瞬の発光の際に見たという人の姿をした何かが追ってくる様子と、か細い声にならない唸り声。
それを聞いて先生、ふと思い出したように口を開きましたわ。
「そういえば昔ね、私が居た頃の噂だけれども、旧校舎は病院として使われていたものだと聞いたことがあるわ。私の頃からあそこは何が出るだの、其れを見ただのと姉から妹へと伝わっていったものですもの。噂も噂を呼べば真になるのかしら」
そう言ってころころと笑っていた先生はこの学び舎の卒業生ですから、恐ろしいといった風ではなく、過ごされた日々を懐かしんでそんな話をしておりましたわ。
詳しくお伺いしたところ、明治の時分は昨今よりも心身の弱い子が多かったようで、病気や療養で泣く泣く学業を断念する方が少なくなかったそうでございます。
ですから噂の花月巻の髪をした哀れな子は、ただこの学び舎で最後まで御学友と過ごしたかっただけなのかもしれないと、お話を聞いてそんなことを考えるようになりましたわ。
こうして振り返りますと、あのとき極端に怯えたことが、少し悪いことをしたようにも感ぜられますわ。あの子は今日も旧校舎で過ごされていらっしゃるのかしら。
新涼の科目準備室。もう窓から入るそよ風も幾分爽やかな季節でございます。