Resistance6
2019〜2020年の冬は雪が降るのが遅かった。冬は夏よりも、私をとても寂しい気持ちにさせた。外出届を出せば外出できた。私は飛び降り自殺が出来るマンションを探した。(知識がないのだが…)7階建てのマンションを見つけた。外階段には防犯扉は付いていなかった。自由に入って、自由に出れた。外出届けを出す度に、私はこのマンションへ来た。7階でも高さがあって、恐怖心を感じた。恐怖心があるということは、まだ生きたい気持ちがあるのだろう。そう、私はまだ生きたかった。母親の作ったハンバーグや餃子が食べたかった。一緒にご飯が食べたかった、一緒にTVも見たかった。でも生きるはつらかった。これも紛れもない事実だった。
この病院に入院する前に一緒に掲示板で自殺募集をした。私を入れて4人が集まった。決行日、私はその人たちと本気で死ぬつもりだった。でも、結局、3人は待ち合わせ場所にすら来なかった。飴を人数分用意したのに。私は病院へ戻った。一人では死ねなかった。死ぬ勇気がなかった。
その日の前夜は嗚咽が出るほど泣いた。自殺はこのあとも何度も試みようとした。共通して、その日の前夜は涙が枯れることなく溢れ出た。涙が出すぎて、鼻水も出て、鼻の下が乾燥してカサカサになってしまった。
2020年2月上旬、通院していた病院から連絡が入った。入院できる部屋が確保できたとのこと。ここの個室はトイレも付いていて最高だったのに…自殺できなかった…退院の最後の日まで自殺のことは頭にあった。
家には戻らず、そのまま、通院先の空きが出た部屋へと入院することになったのだが、6人部屋ということ、トイレの数が2つしかないこと…など、あまりにも不安感が酷かったので、親に泣きながら訴え、別の新しい病棟の個室が空くまで自宅療養することになった。
1ヶ月ちょっとぶりに帰ってきた家はとても居心地がよかった。お風呂のお湯に入れたのも、とても気持ちが良かった。1番嬉しかったのは、父、母、姉の声が聞こえたこと。とても安心できた。睡眠薬なしでもよく寝れた。幸せを感じた。
しかし、一向に胃の調子は良くならず、吐き気も止まらず、苦しい毎日だった。グーグルマップで飛び降り自殺ができそうなマンションを探した。飛び降り自殺についても調べた。7階では助かる可能性もあることを、ようやく知った。良かった、実行しなくて。心から思った。助かることだけは絶対にしたくなかったので。
2020年3月中旬、病院から、入院できる部屋が確保できたとの連絡が入った。私は3回目の入院をした。この時期はコロナの影響で面会も出来なくなった。吐き気もつらかったし、精神的に寂しくて、たくさん泣いた。苦しくて、エンシュアという栄養剤のアルミ缶のキャップで腕を傷つけた。でも鋭くないので、全然痛くない。化粧水の瓶で腕を力いっぱい叩いた。痛いけど、私は血が見たかった。人にもよるけど、私は自由にスマホを持って、病棟内を移動できた。私はお金を隠し持って、タクシーを呼び、近くのホームセンターへ行き、カミソリを手に入れた。ドキドキしたけど、久しぶりの達成感を感じた。部屋に戻ってきて、すぐに腕を切った。生まれて初めて切った。とても気持ちが良かった。痛いけど、気持ち良かった。1度切ると、止められなかった。その日に、右手も左手も手の甲も傷だらけになった。
看護師の人にバレて、持ち物検査、シャンプーや洗濯洗剤など、危険だと思われるものが没収された。でもカミソリはバレなかった。ティシュの箱の中に詰めていた。看護師の人も深く追求してこなかった。入院しても食べれないのなら、退院して、お家で過ごしたいと、親にも主治医にも伝えた。
2020年4月下旬、看護師、主治医、親との話し合いの結果、食べれないまま、体重は増えないまま、病気は治らないまま、退院することになった。