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阪神淡路大震災と父の思い出

1995年 1月17日 5時46分   ガタガタガタ…それは突然やってきた。隣で寝ていた妹と「キャー、地震…怖い!」   今まで こんな大きな突き上げる様な揺れは経験したことがない。
やがて長く感じた揺れは止まった。

当時、私はまだ実家で家族と暮らしていた。2階の私達の部屋に父が即座に階段を上りながら叫ぶ「おい、大丈夫かー!」また、余震が来る。2階は揺れがひどい。1階の茶の間に家族4人身を寄せ合い テレビは映るかな…ついた!地震情報をみる。ブラウン管の中で信じられない光景が目に飛び込んでくる。
火災だ、炎が舞い上がる。家屋は倒壊、道路に亀裂。高速道路が折れ曲がっている。
人は大丈夫なのだろうか。。。

私の家は大阪南部。震度はそれでもマシな方だった。でも怖かった。中心部では あれ以上の揺れが!!!! ……想像を絶した。

うちの被害は父の寝室のテレビが倒れていただけでしたが、いつも通り寝室で寝ていたらお腹にテレビ直撃免れません。しかしこの日は たまたま母と茶の間で遅くまでオセロをしていてそのまま寝入ってしまって助かりました。

私の父は若い頃から体が弱く何度も手術を繰り返し、震災時の10年前(47歳)から社会復帰のできない体になっていました。
1年のほとんどを病院で過ごすこともあり、女だけで過ごすこともしばしば。
この時はもう手の施しようがなく自宅療養をしていました。
私と妹は社会人になっており、家計を補っていました。

被災された皆様が不安を抱えていたのと同じように私達もまた次の地震(余震)に怯えていました。

その日から、我が家は1階の和室で家族が一緒に布団を並べ就寝しました。

父は私たちを守るべくして。私達は父を守る為に。。
普通に生活は出来ていましたが体力がなく、走って逃げるなんてとんでもない身体。
もしも、逃げなければ行けない事態になったら……
おぶって逃げれるかな。台車に乗ってもらって押して逃げるかな。どうして逃げようか、そんな事ばかり考えていました。家の中でも体温が下がるとブルブル震え、その度に私を呼び「毛布をもっとかけてくれ」「いつもの足を作ってくれ」←ペットボトルにお湯をいれタオルで巻いて足元を温める。を頼んでいました。
そんな身体で避難所生活は耐えれないだろう…それも不安でした。
車の中には温めるものを準備。薬も防災グッズと まとめてありました。

心の中で祈るばかり、、、、。

団地に住んでいた小学生の頃は狭くて並んで寝ざるおえませんでしたが、懐かしい。。またこうして寝るなんて。。。震災を機に家族が数ヶ月でしたが共に過ごし、会話も増えました。家族間ではオセロブーム。
みんな個々に負けず嫌いで真剣勝負でした(笑)

私にとって 生きているだけで有難い父。

優しい優しい おとうちゃん。

そして 4月の半ばに体調が悪化 、入院。

5月の初め、57歳で永眠しました。

最後にとても濃い時間を過ごした思い出は忘れられません。

被災された方にも身体の不自由な方もいらっしゃったでしょう。
御家族や友、恋人を亡くされたかた。家を失ったかた。また、長きにわたり避難所生活でご苦労もあったでしょう。
胸が痛みます。

あれから25年。父が亡くなって25年目。
想いが巡ります。

いま 私達に出来ることはなんだろう。。。



今回で5回目となるこのチャリティーコンサート。

1月17日に阪神淡路大震災のあった日 この街
"復興のシンボル" 兵庫県立芸術文化センターで
東日本大震災 子供支援募金チャリティーコンサートとして開催されます。

大江千里さんが出演されている事がきっかけで知ったチャリティーコンサートへ昨年に続き私も参加します。(毎年多数の応募があり当選者のみ)
とても心温まるチャリティーコンサートです。
千里さんも、関西学院大学の出身。神戸はゆかりのある地。震災当時、西宮の避難所へボランティアにも行かれたそうです。

集まった義援金は 阪急阪神ホールディングスグループの社会貢献活動『阪急阪神 未来のゆめ・まちプロジェクト』の一環として実施され 義援金総額と同額を同プロジェクトが 上乗せして寄付されるとのこと。
素晴らしいですね✨

音楽は心を癒します•*¨*•.¸¸♬•*¨*•.¸¸♪

被災された皆様が心身ともに健やかに過ごされますように。。。

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