見出し画像

他人と自分を比べて落ち込むのは、多分勘違い

「他人と自分を比較しても意味がない」
「比べるなら、他人よりも過去の自分」

 最近、特にSNSではそんな言葉を多く見かける。確かに、状況や環境、性格やライフスタイルも違う他人と自分を比べたところで、何のメリットもないだろう。
ただ、頭ではそう分かっていても、つい誰かと比較をしてしまうのが人間ではないだろうか。そして、勝手に劣等感を持ったり落ち込んだりする。私だってその一人だ。特に昔は、そういった感情が大きかった。

しかし、誰かと比較をしてその都度落ち込んだり羨んだりしていると、どうしたって心が疲れてしまう。だから、私も実践しようとした。「よし!他人と自分はもう比べないぞ!」と。
だけど無理だった。だって、みんな私が持っていないものをたくさん持っているから。ないものねだりとはよく言ったものだが、周囲の人を対象に、自分の足りない部分を探すことなんて、もはや朝飯前だった。

あの人綺麗だな、スタイルいいな。この人喋るのが上手だな、頭がいいんだろうな。人気者ですごいな、友達が多くて楽しそう。この家、お金あるんだろうな。いいな、いいな、いいな。

そんな「いいな」の感情に押しつぶされて、「それに比べて私は……」と勝手に落ち込む。悪循環もいいところである。面倒くさいったらありゃしない。
だけどSNS時代の昨今、いろんな人が好きに発信を楽しんでいるなかで「羨ましい」の感情を持たないことは、意外と難しい。

だけどある日、ふと思った。
「私、本当に羨ましいのかな?」と。

たとえば、私は独身で子供もいない。
小児科で働いているゆえ、日々たくさんの子連れのお母さんや家族の光景を見て、「幸せそうでいいなぁ」と思うことはよくある。
だけど、私は今やりたいことや叶えたいことがあり、そのために自分の時間は自分のためだけに使っている。そしてそこに、充足感を持っている。
仮に子供を持たなかったとしても、結婚をすると今と同じ生活は送れなくなるだろう。

人付き合いに関してもそうだ。
他人と話したり関わったりすることは、もちろん楽しい。誰かと話すことで、新たな発見や気づきも増える。だけど根本的に、私はひとりの時間が結構好きだ。それに目立つことを好まないし、長時間多くの人と一緒にいると、どうしても疲労を感じてしまう。
昔は、人気者や友達が多い人を羨んだこともあった。だけど今、数少ないが1~2ヶ月のペースで会う友達や、用もないのに頻繁に連絡をとる友達もいて、その関係性を心地よく感じている。いつも大勢に囲まれ、人気がある人を見ると、どうしたってキラキラと輝いて見えるものだが、じゃあ自分がそのポジションにいきたいか?と考えた時、答えはNoだ。もし今、私がその立場に立ったらものすごく疲弊し、自分が自分じゃいられなくなるだろう。

その原理に気がついた時、すごく心が軽やかになった。「なーんだ、羨ましいって勘違いじゃん」。そう思った。

隣の芝生は、どうしたって青く見える。だからといって、自分も青い芝生を望んでいるかはもはや別問題だ。
「いやいやいや、私は自分の庭をコスモス畑にしたいんですよ。ピンクや白で彩りたいの!もちろん、青い芝生も魅力的だけどね!」
そのように、相手のことも認めつつ、自分が本当に求めているものを知ることさえできれば、不必要に自分を卑下することもない。同時に、相手に対して優越感や劣等感を抱くこともなくなるはずだ。

 他人と自分を比較したっていいじゃないかと、私は思う。無理に自分の感情を抑圧する必要なんてない。それよりも、大事なのはその後だ。
自分が本当に求めているものを理解し、そのうえで他人も自分も認めることができたなら、妬みは憧れに、卑下はモチベーションに変えることができるだろう。少なくとも、私はそういう人間で在りたい。

……とまぁ、偉そうなことを言っておきながら、30代になった今も、巨乳を見るとギリギリギリッと歯を食いしばるような感覚に襲われる。多分、これに関してはもうどうにもできない。
時に勘違いではなく、青い芝生を羨むのもまた、人間の性なのだろう。



【65/100】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?