見出し画像

彼が亡くなって3年。今、毎日が幸せだ。

 10月28日、今日は彼の命日だ。
婚約をしていた彼が亡くなったあの日から、今日で3年が経った。

「もう3年」と言うべきか、「まだ3年」と言うべきか。その感覚は自分でもよく分からない。分からないけれど、この3年、本当によく頑張ってきたなと自分で思う。
本業を変え、副業でシナリオライターの仕事を始め、付き合う人も住む場所も日々の生活も、すべてがガラリと変わった。思えば、あの頃は毎日が必死だった。必死にいろんなことを詰め込んで詰め込んで詰め込んで。そうしなければ、生きていくことができなかった。いや、「生きよう」と思うことができなかったのだ。

ただ、この3年間で一番の大きな変化と言えば、『後悔の概念』が変わったことだろうか。というのも、彼が亡くなってすぐの頃、私はいろんなことに後悔をした。

もっと何かできたんじゃないか。
あの病院を選ばなければ。
もっとたくさん話をすれば良かった。
あんなことを言わなければ良かった。

たくさんたくさん、後悔をした。けれど、その全てが無駄で、遅い。
だって、彼はもう死んでしまったのだから。謝りたいことも伝えたいことも話したいことも、もう何も届かない。

そして、思った。「そっか、後悔ってしちゃいけないんだ」と。
大切な人や、守りたい人がいるなら尚更。後悔なんてしない方がいい。するだけ、無駄。そう、自分のなかで固く誓った。

 それからというもの、ライターの仕事を始めた私は「後悔しないように生きよう!」という言葉を、文章を、いろんな場で吐くようになった。
自分と同じ思いをする人を増やしたくない……といった感情はもちろん、私自身、過去の私のような人を目にするのが嫌だったのだ。

けれど、今……というか、最近は少し違う。
もちろん、生死に関わる判断や選択は誤らない方がいいに決まっている。ただ、選択の連続である人生のなかで、後悔の気持ちがその後の生き方に、なんらかのいい影響を与えることも十分有り得るのではないか。そう感じるようになった。
こう思えたのは、「書くこと」を専門にしている人たちの考えに触れる機会が増えたことが大きい。有名なライターさんや編集者さんの講義に参加したり、その人たちが書いた書籍を読んだり、ライター仲間と話をしたりするなかで、皆、何かしら悩んで立ち止まって、後悔をした経験があることを知った。

文章を綴る人たちは、一生懸命な人が多い。それと同時に、優しい人が多いなとも感じる。もしかすると、常に読者や自分といった「誰か」の目線に立ったうえで、思考や感情を巡らせているからなのかもしれない。
そのなかで、大なり小なり、皆何かしらの失敗や挫折を経験している。どれだけ順風満帆に見えても、どこかで悔しい思いをしている人がほとんどだった。けれどそれらの経験をバネに、どんどん先へ進もうとしている人がどれほど多いことか。迷って悩んで、時に後悔をして来た道を戻って、それでも前に前に進もうとしている人たちからは、後悔に囚われている印象などこれっぽっちも受けなかった。

よくよく考えれば、それは当たり前のことなのかもしれない。ただ、自分の経験から意固地になっていた私は、後悔は悪いことばかりじゃないと、それを認めるのが嫌だったのだ。

そう理解したとき、すっと胸のしこりが溶けた気がした。思えばずっとひとり、私は躍起になっていた。ガチガチに凝り固まった気持ちや思考を抱え続けているのは、意外としんどい。
そう。本当はずっと辛かったし、しんどかった。頑張りたくない日もあったし休みたい日も、ゆっくり眠りたい日もあった。だけど、それができなかった。頑張らないと、もっと頑張らないと。ライターを始めて最初の1年は特に、そんな感情に駆られていた。
けれど、彼が亡くなって3年の月日が経ってようやく、少し休んでもいいと、もう少し柔軟に生きてもいいのだと、そう思えるようになったのだ。

もしかすると、一生懸命頑張ることに後悔は付きものなのかもしれない。過ぎた年数と共に、私はそんな柔らかい思考を取り戻すことができた。

 あの時、「書くこと」を選んで良かった。「書き続けること」が目標で、夢である自分で本当に良かった。生きたいと願っていた彼が亡くなってからというもの、私はもう「幸せ」と言う言葉を使ってはいけないんじゃないか、幸せを求めたり感じたりしてはいけないのでないかと、漠然とそう思っていた。だけど今、あえて言わせてほしい。

書くことに出会い、やりたいことができて、夢を追いかけている今、毎日がとても幸せだ。


【73/100】

いいなと思ったら応援しよう!