INFJ | MBTI が好きな理由 ②
引き続き MBTI を好きな理由について、思うままに書いてみます。私は INFJ を自認しています。
よければ ① も覗いてみてください💐
(思っていた以上の方に読んでいただけてとっても嬉しかったです。ありがとうございました!)
今回もめちゃくちゃ長くなってしまったので、気になるところだけでもぜひ覗いてみてください。
ネットの海に投げ入れるメッセージボトルのようなイメージで書きました。どなたかの目に留まり共有できる何かがありますように。
それぞれの優しさの形
あれは優しさゆえの言動だったのか…… と後になって気づくことが時々あります。
いまだに気づけないまま、受け取れなかった優しさだってきっとたくさん。
優しさというのは、送り手と受け手の間で糸がもつれ、まっすぐ届かないことが少なくないものなのだと思います。
たとえば私が誰かに悩みを相談して、相手が親身になってくれたとします。
その相手の反応を想像してみると ———
① 心から共感し、慰めてくれた
② 真剣に受け止めつつ、「そんなことなんでもない!気にすんなっ」と明るく笑い飛ばしてくれた
③ 厳しいことも伝え、発破をかけてくれた
④ 具体的で実際的なアドバイスをくれた
⑤ ただただ話を聴いてくれた
⑥ 私もこうだったと自分の経験を話してくれた
⑦ 人それぞれ立場も考え方も違うからと、あえて何も言わずにいてくれた
⑧ 私を思って、思いつくかぎりのフィードバックをしてくれた
⑨ 私を思うあまり、何も言えなくなってしまった
⑩ 泣いてしまった私をそっと抱きしめてくれた
⑪ 私の涙には気づかないふりをしてくれた
︙
ちょっと考えただけでも、これだけのバリエーションがあります。
面白いのは、それぞれ対になっている言動があること。⑥と⑦とか、⑧と⑨とか。一見正反対に見えるけれど、蓋をあけてみれば同じ優しさが詰まっていたりします。
私の場合、とくに10代の頃は「考えすぎ」と言われるのがいやで、②の反応が苦手でした。③や④を優しさだと気づけなかったり、⑦の誠実さに思い至れず冷たいと感じてしまったり。
私の思う「優しさ」には偏りがあって、気づきやすい優しさと、なかなか気づけない優しさがあるのだと思いました。
MBTI について学んでいると、優しさの表れ方も人それぞれだなあ、としみじみ感じます。
たとえば以下のように。
ずっと漠然と感じていた、人による「思いやりの示し方」の違いが、心理機能という観点から説明され、すっきりしました。
もちろん MBTI は単なる考え方の枠組みでしかありません。誰かの言動をすべて説明したり、予測したりなんてできません。
ただ、それぞれの心の在り方について何も知らないまま、「あれは優しさなんかじゃない」と誰かの思いを退けたり、せっかくもらった優しさに気づけなかったりするのは、なんだか勿体ないことに思えます。
それどころか、ある人にとっての優しさが、誰かにとっては攻撃や無関心のように感じられてしまうなんて、とても寂しいことです。
また、自分がしてほしいことを相手にもしてあげなさいという言葉がありますが(これも一つの真理だと思います)、私の望む優しさの形と、相手の望むそれは必ずしも一致しないのだと改めて気づかされました。
MBTI を知ることで、少しでも「私」というフィルターを外して、より多くの優しさに気づき、受け取っていけたらいいなと思っています。
* * *
他の人から見える世界はどんなだろう?
10代の頃は、どうして私はすぐにキャパオーバーしてしまうんだろう、と思っていました。
どうして心も身体もこんなにいっぱいいっぱいになってしまうんだろう。「普通」にいられないんだろうって。
大人になって人は本当に人それぞれだと気づいてからは、じゃあ、他の人から見える世界はどんなだろう? と考えるようになりました。
「私」というレンズや鏡が外れたとき、世界はどんなふうに映るのだろうって。
「エブリデイ」という映画は、まさにそんなことについて考えさせられる作品でした。
「エブリデイ」は、毎日違う人間の身体に憑依する霊体 “A” と、あるとき出会った女の子のラブストーリーです。
とくに心に残っているのは、自殺未遂をくり返す女の子に “A” が憑依するシーン。いつも明るく人生を楽しんでいた “A” が、嘘のように塞ぎ込み絶望してしまいます。
そんな “A” を見ていると、人が世界をどう見るのか、感じるのかは、
これまでの経験、記憶、生まれ育った環境、心や身体に患った病、苦しんできた時間の長さ、生まれてから積み重ねてきた物の見方、捉え方、思い込み、固定観念、自己イメージ、周囲から受け取ってきた愛や悪意、心の性質、身体の性質……
あらゆる要素が複雑に絡まり合い、作られていくのだと思いました。
それこそ “A” のように憑依でもしないかぎり、誰かの気持ちなんてわからないのです。その本当のところは。
それでも知りたい、と思ってしまいます。
“A” の言った「同じ青でも人の数だけ異なる見方ができるんだ」という言葉。
私は知りたいんです、そのたくさんの青の見え方を。私以外の人がどんなふうにこの世界を見て、感じているのかを。
そんなこと、私が私であるかぎり逆立ちしても叶わないと弁えたうえで、それでも。
MBTI は、ただの性格診断というより、その人が世界をどう見ているか、どう捉えているかを垣間見られるツールだと考えています。
内向(I)と外向(E)、感覚(S)と直観(N)、思考(T)と感情(F)、判断(J)と知覚(P)、それぞれに違った見方・捉え方があります。
これら4つの指標がどのように組み合わさるかで、さらに多様なダイナミクスが生みだされます。
もちろん MBTI はあくまできっかけ、ヒントでしかありません。人の心なんて、自分のものですら本当には分からないのだから。
それでも MBTI について勉強していると、これまでモヤモヤとして捉えどころのなかった「他者から見た世界のイメージ」が、ほんの少しは形をもって想像できる気がして、楽しいのです。
そういうところも、MBTI を好きな理由です。
* * *
理解と尊重
上の話に関連して、少しだけ家族の話をします。
私の祖母は、典型的な外向型です。
生まれてからほとんどずっと一緒に暮らしてきた祖母ですが、外向型という祖母の個性を本当の意味で理解し始めたのはつい最近のことです。
とにかくパワフルで、交友関係が広く、出掛けることも人に働きかけることも大好きな祖母です。
コロナでステイホームになったとき、家族の誰より祖母が元気を失くしました。イライラ落ち着かなかったり、塞ぎ込んでしまったり。
内向型の私にとって、ステイホームそのものは何の苦痛もありませんでした(家族がそばにいてくれたから、環境に恵まれていたからだとは思っています)。
それまで内向型の素敵な面は知っていても、やっぱり生きやすいのは圧倒的に外向型だろうなと思っていた私にとって、一つの発見でした。なるほど、そういう種類のしんどさがあるのかと。
祖母はお喋りも大好きです。
顔を合わせると、「◯◯さんの息子さんがね、ほら◯◯にお勤めなんやけど、最近◯◯らしくて、◯◯みたいなんよ」と長々話したりします。
私自身に余裕がないときは、もう!どうでもいいよそんなこと!誰やねんそれ!と、うんざりしてしまうこともしばしばです。笑
だけど ———
これらを読みながら、祖母への偏った見方に気づかされました。
祖母にとっては、中身のない話を延々としているわけではなく、家族との大事なコミュニケーションなのかもしれないこと。中身がないと決めつける前に、そこから始まる対話はないかと捉え直してみること。祖母が「尊重されている」と感じられるのは、何気ない日常の会話を通してなのではないかということ……
内向型、外向型という言葉はずっと知っていましたが、なるほどそういう違いだったのか……! と目から鱗でした。
内向 / 外向の違いにかぎらず、
INFJ の私はともすると、T型は冷たい、S型は面白みに欠ける、P型は移り気だ…… など、自分との違いを偏った見方でジャッジしてしまいます。
けれど MBTI というのはそもそも理解と尊重を目的とした理論です。
人への理解と成長、それ以外の利用は理論の意図に反しているとさえ言われています。
私は、すべての人の意見は尊重されるべきだと考えています。
状況に応じて採用される意見は違うかもしれませんが、本質的には、それぞれの考えにはそれぞれの正しさがあると思っています。
コナンくんは「真実はいつもひとつ!」と言いますが、一つしかないのは事実であって、真実は人の数だけあるのではないでしょうか。
それぞれの生きてきた背景によって、たった一つの事実から、様々なかたちで解釈された真実が浮かび上がってくるはずです。
先に書いたように、私が私であるかぎり、それらすべてを理解することは叶いません。
ただ、 MBTI を道しるべにすれば、ほんの少しは他の人から見た真実のあり方を想像できる気がするのです。
そしてそれらを尊重する努力を重ねていきたいと思っています。
* * *
メディシン・ウィール (魔法の輪)
さいごに、とっても印象深いお話を紹介します。
タイプ論のユングや MBTI のマイヤーズが性格をタイプ分けするずっと前から、アメリカ先住民の伝統であったメディシン・ウィール(魔法の輪:medicine wheel)についてです。
これはタイプ論のもっとも古いものの一つとされているようです。
ようするに、「人はそれぞれある特定の世界の見方を生まれつきもっている」という考え方です。
たとえば「バッファローの方法」では「ものごとを合理的かつ分析的にとらえ」、「鷲の方法」では「詳細を超えて高く飛んでものごとをパターンでとらえ」ます。
「熊の方法」では「周囲とのかかわりのなかからとらえ」、「ねずみの方法」は「地面に近いところからものごとの根っこの部分や詳細をとらえ」ます。
この基本的なパターンに加え、個々の複雑さ・独自性をかんがみて、たとえばある人は「内なる世界を見ている緑色の熊」などと表現されます。
なんて素敵な伝統なのだろうと思いました。
長老たちに人や物事を正しく洞察する力がなければ成り立たないとか、石の数がレッテルや周囲との競争の種になってはいけないとか、懸念点もいろいろとありそうですが、これほど合理的に無益な争いや誤解を防げる考え方があったのか!と感動しました。
MBTI は、こうした伝統を現代風に改訂し受け継ぐものだと書かれていて、心底納得しました。
ちなみに、ディズニー・ピクサーの「マイ・エレメント」は、勝手にそれらの考え方とどこか通じるものがあるような気がして、公開を楽しみにしています🌼
* * *
この辺りで、一旦終わりにします。
最後まで書き切ってしまいたかったのですが、あまりに長くなりそうなので次で最後にします。
もしもここまで読んでくださった方がいれば、本当に、本当にありがとうございました💐
23.6.27.追記
よければ ③ も覗いてみてください🌿
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