論破おじたんこそ無産な理由
代替案がないからです。ヘッダ画像をお借りしています。
またしても題名の真下でお話が終わってしまった、一定の結論が出ましたので今日はぼくの愛犬についてお話しようと思います。イッヌはわんわんと泣きますね。
ぼくはある知識人のご本を読んだときに、会議で相手の企画をけなしたりあら捜しばっかするやつってマジで終わってるみたいな話を知った。
つまり意見を次々に潰していくから、またそれがどんなにロジカルで正当性がありそうな内容に見えたとて何の生産性も産まないわけです。あとには焦土しか残らない。荒野製造機といえましょう。
昨今ガキの間でも論破というカス以下の単語が流行ってしまい、教師が困ってるみたいな話を耳にする。まったく教育職は関わるも地獄であり、自分の子どもを関わらせるも地獄だと思う。そりゃ教育職が破綻することになる。いや、教育の破綻が先なのか教育の構造に無理がありすぎるのが先なのか。
無産という言葉もやたら極端な単語です。まるでそれを指摘されて嫌だった奴が生み出した単語のように思えてしまう。
どうしてもそいつの中にはヒエラルキーがあるらしい。何かを生むと偉くて、生んでないと下にくる。無産という単語って相当そいつの中で強力なんでしょうね。「極端」に全振りした、すべてを黙らせられる魔法の言葉か。
で何故か知らないけどその構造がそいつの中で神格化でもされるのか、生産してるような行為こそ絶対的だと脳死で信じ込んでいるから、自分の言葉に自分が大いに縛り付けられる。まさに意味不明な宗教にひとりで勝手に囚われて自分を見失ってるおじたんに見える。
「極端なこと」を言うと何か生産した気になっちゃうんですよね。極論を結論にすり替える。結論てなんか偉そうだしいっかな、みたいな。
で、ご自身が「無産が(まるで)悪だ」と決めつけちゃっており、行動原理がそいつに縛られちゃってるからあとはもうそいつはガンガン極論をいう機械に成り下がる。極論しか言えない機械に成り下がるんですよ?それってマジですっげー無産に見える。
最適解なんてないわけです。今ぼくは「最適解はない」という極論を言いましたね。このままじゃぼくは極論=無産になってしまうのでこれを回避しないと。別に何も生産してないんでいいんですが。
つまり冒頭の知識人の話に立ち返ると、「最適解なんてねえんだよ、じゃあどうするか」を提案すべきだということです。
なんだか知らないが全く違う命ばかりが集まってる世界があり、そこで生きるしかないのであれば、それぞれの命ごとに答えが存在する。だから答えなんてひとつじゃないわけです。
で、お互いにどんな多様性があるんだろう?と各趣味嗜好のパターンなりを提示しあい、抜け漏れチェックみたいに探していく。で何かしらの決定をする際に全員にとって等しい程度の痛み分けができれば、それをテンポラリ最適解とする。全員へのできるだけ同じような痛み分けとは、全員への配慮と同義だ。
お互いが意気投合なんてしなくて良い。全員が合意なんてできるわけがない……あ、全員ちげーんだな、を知って理解するだけでいい。むしろそれぐらいのことができれば極論おじたんなんて産まれないと思うんだけど、極論という単なる蜃気楼でしかないものを生産と思い込み、俺いま生産している、と勘違いしてしまうんでしょうか。
極論ばっか飛ばして焦土を造ればあとには何も残らない。だから代替案が必要なのだ。代替案とはどこまでいってもひとつの「案」です。強制執行ではないのだ。
「うーん、それもいいと思うし、そういう意見が出るのはわかるよ?でもそれを押し通しちゃうと、こういう人たちが全くついていけなくてふるい落とされちゃうよね。それをなんとか補填する何かがあってもえんちゃう?」
が何故できないんだろう?
あたりを焦土にする行為をしてる当事者は、「あたりに『焦土』という生産品を造ってる」とか勘違いしてしまうのだろうか。
実際にやってることは焦土を造ってる、なのでつまりそれこそが「無産」だ。むしろそこに在りしものを破壊している時点で、無産以下といえるだろう。せっかく「生産」された有益なものを破壊して回ってるんですよ?害虫じゃん
なので皆さんも極論しか言えない絵に書いたようなインターネッターなんかに巡り合ってしまったら、ああ生産という見えない概念なんかを信仰してしまってる者であり、そんな存在しないものを必死に信じ込んでいる哀れな狂信者なら、実際やってることは無産以下なのでああはなるまいと思いましょう。発露さえしなければ、心のなかで極論を言う権利は誰にでもあるのだから。