小ぎたない恋のはなしEx23.5:「誰かの勇気にならなければならない職的な業」
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https://note.com/fuuke/n/n94078f7eb02e
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別に皇帝自身にそのような効果はないだろうけど(これは不敬な言い方だ)、「人前に立つ人々」に対して異様なまでに「僕もあたしもああなりたい」みたいな視線が向けられることがある。
「誰かの勇気になること」を義務づけられるのは苦痛で不幸で哀れだ。そんな人生重すぎるから。
例えば運動が得意な人がいたとする。
しかもその運動をしていて怪我を負うだったり、後天的に稀有なぐらい重い病気になってしまったりして、それを乗り越える。そしてまた同じ競技で結果を出す。
まるで天が与えた重く悲劇的な試練を乗り越えたかのように扱われ、その姿が誰かの勇気になる。僕も私も、自分に降り掛かった災厄に負けないであの高みをめざすぞ。
病気や怪我を負った後で、またそれ以前と同じパフォーマンスが出せるかどうかなんて未知数だ。以前できていたことがもうできないとしたら、それ以上の絶望がこの世界にあるだろうか?
でも上述の人たちはそれを乗り越えた。同じ結果が出せた。
心身に災厄が起きた人は、同じような境遇の人が目に付きやすい。「俺はまた以前と同じあの状態に戻れるんだろうか?」そんなことは、「その災厄が通り過ぎてくれたであろう未来」が訪れない限りわからない。その未来はいつ訪れるのか、本当に訪れるのかわからない。
幸せな状態から不幸な状態になると、今まで自分がどれだけ見て見ぬ振りをしていたのか―――いや、それまでは意識にすら刻まれることがなかったんだから見て見ぬ振りと表現するのは偽善だ―――と気づく。
これは大学の教授に教えてもらったことだが、不幸になると「自分と同じ境遇に遭っている人」に気づきやすくなる。足の怪我をして松葉杖を使うようになると、町の中で同じく松葉杖を使っている人に気づきやすくなる。さらには車椅子を使って日常生活を送っている人に気づきやすくなる。つまり自分と同じくらい大変な目に遭っている人、もっとひどい目に遭っている人に、だ。
というバイアスがかかるようになるらしい。ようやくかかる。
僕はこれが生き物の本能なのだろうと理解している。僕は前例主義だとかユースケースだとか、ロールモデルとか気取った言い回しが嫌いだけど、世間が正当化(「前例主義」は批判に使われるから正当化じゃないけど)しているそれらのような形容の仕方で表現したくない。
「いま、この災厄に見舞われた自分」は、「いま、この災厄に見舞われた状態」における初心者だ。
「いま、この災厄に見舞われた状態」において、それでも生きなければならない。勝手に時間が進むからだ。時間は生き物を飢えさせ、飢えれば生き残る可能性が限りなく減少していくだろう。
だから誰かを模倣する。それでも生きなければならない、そのモデルケースを無意識で探そうとする。
それまでは、世界にはそこまでの災厄に遭っている人がいるなんて、まるで想像だにしない。
だから怪我をしたプロ運動屋は恐ろしく注目される構造になっている。英雄でヒロインだ。目指すべき存在だ。
もし戦時下で劣勢状態にあり、戦意が思いっきり低下している場合にも何らかの戦功を揚げた者がいてしまった場合、同じことが催されるだろうことは容易に想像できる。起きる、ではなく催される。意図的にだ。
敵の首を何個獲った、何人殺した、ここまでの勲功をあげる奴がいるんだから、無理やり徴兵されたと愚痴ってないで国家様のために戦え。それが正しいことでここにいる理由なのだから。このように意図的に称えるべきもの、目指すべきものを造ってやり、扇動する。もう猿真似すること以外に生き延びる道が閉ざされてしまった若い命たちを、その猿真似で生き残ってみせろと追い詰める。
でもそんなもの本当は、ただの蛮勇であり犯罪でしかない。
それでも、戦時下という災厄の中にいる状態で、モデルケースを見つけねばならない。人を殺した数によって、その道が拓けるモデルが選ばれるなんてことが本当に起こりうるのだろうか。僕らは戦争を知らないのだ。
僕は個人的に、数秒前まで人間の形をしていたものを個数で呼ぶことに対して強い抵抗感がある。首級のことだ。かつて人の身体の上に存在して、その人をその人たらしめていた首をして個数で呼ぶことは不敬行為よりも不敬だと考える。存在に対する冒涜よりも、種に対する冒涜のほうが罪が重くないだろうか?
果たして戦時下ではその蛮勇を聞いて勇気を出さねばならないのだろうか。「誰かが異様な数、人を殺した」という情報を得て、僕も私も明日はたくさんの人間を殺そう、と思うのだろうか。
誰かが人を殺したという情報が、誰かの心に炎を灯すのだろうか?それはただの「後戻りできない感」と何が違うのだろうか?
と、あからさまに平和な時代のど真ん中を走る、冷房のせいで冷蔵庫のようになっている急行の座席で僕はこんなにくだらない平和の中に生きていられる自分を思ってやるしかできない。
▼次回
▼謝辞
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