華僑心理学 番外編: 華僑の両親から教わった、人生でいちばん大切なこと
こんにちは、こうみくです!
一昨日公開した、華僑心理学No.2 「なぜ、中国人にモラルがないのか?」の記事に対して、またまた、いろいろと感想を頂いた。
わたしがこのマガジンを通して、いちばん伝えたいことが、日本人、中国人と異なる価値観が形成された背景を知ることによって、互いにより理解し合えて、歩み寄れる関係性を築けるはずだ、という点である。よって、上記のような感想を頂くと、飛び上がるほどうれしい。
皆さん、本当にありがとうございます。感想はすべてこちらにあります↓
さて、モラルは常識観と相関が高い概念であると、個人的に考えている。言い換えると、中国人は日本人と比べて、常識に捉われていない面白さがあると、わたしは感じている。
その最たる具体例が、わたしの両親である。
1.おちゃめで可愛い父、アグレッシブで破天荒な母
これは3年前の写真だが、わたしの父は、常識どころか煩悩にすら捉われていないため、いつみても、とても若々しい(写真当時52歳)。
この写真は、バス旅行で白川郷に辿り着いた瞬間、「あ!わき水がある!」と水源に駈け寄り、「つめたい!!みくちゃん、つめたいよー!」と足をピチャピチャさせながら歓喜する父(52歳)を、まるで母親のような穏やかな目で眺める娘(26歳)が撮影した一枚である。我ながら、父がかわいい。お気にいりの一枚である。
そんな子ども心を忘れない可愛いけれども大人しい父とは打って変わって、母は、アグレッシブで活動的だ。
これは、旅行先から送られた母(58歳)の写真である。インスタ映えならぬ、Wechate(中国版インスタ風SNS)映えに命を懸ける母は、Forever 21の精神を発揮して、2,3か月に一回は、世界を駆け巡っている。
社会人になって2年目の夏、「親孝行として、どこか好きなところに旅行に連れていくよ!何処がいい?」と尋ねたところ、「Wechatにいる友人全員からイイネされるような場所がいい。」という女子大生もビックリ仰天な、素直な自己承認欲求をぶつけられた。
そこで決まったのが、アフリカのケニア旅行だった。
車上に豹が飛び乗った時の写真である。ちなみに、天井はない。
「これ以上のシャッターチャンスはない…!!!」
と狂喜乱舞する母。ドン引きして、奥に隠れる友人(左)。
このあと、「もっといい写真撮れないかな…!!!」と、更に天井から手をつきだして、iPhoneで自撮りしようとする母を見て、おどろいて必死に止める現地ガイド(マサイ族)の図のシュールさは、20年経ったあとも、きっと忘れないであろう。
2.母から教わった、自分の人生を背負うということ
ここまでの話だと、母はただの目立ちたがり屋のキチガイのように聞こえるが、実際は非常に教育熱心で現実主義な人である。
たとえば、高校受験の直線に、わたしが「試験本番で実力を発揮する自信がない」と言えば、「じゃあ、場数で補うしかないね!」と、私立公立都内都外合わせて、なんと8校も受験させてくれた。
一般家庭の実家において、受験料だけで40万、入学の手付金も併せると50,60万の出費は非常に痛かったはずだ。
それでも、母は「落ち着いてやれば、大丈夫だから」、「きっとなんとかなる」といった気休めや精神論に頼らず、
うちの子はメンタルが弱いと自己申告している → 短期間でメンタルを鍛えることは不可能 → 試験本番に支障が出る可能性大 → 場数を増やすことによってリスク分散させよう
とロジカルシンキングで淡々と分析しては、対策を講じて、受験会場に送り出してくれたのである。
そんな母との思い出で、もっとも印象的なエピソードを紹介したい。
2.1 問題の本質は、お金でも時間でもなく、自分の意識
みなさん、ご存知の方も多いと思うが、アフリカの石原さとみという別名を持つわたしは、長年、外見コンプレックスに悩まされていた。
http://loveworklife.hatenablog.com/entry/2017/04/08/002518
ブログに書いてあるような健気に努力していた時期もあれば、自意識をこじらせて腐っていた時間も、当然長かった。
就職活動が終わった大学4年生のある日、どんなきっかけだったか忘れたけれども、実家でイライラしていたわたしは、次のように母に毒づいた。
「なんで、お母さんはもっと可愛くわたしを産んでくれなかったの??こんな顔じゃ生きずらい!さいあく。」
洗濯物を畳む母は、手を止めて、わたしにこう聞いた、
「……そうなの?じゃあ、みくはどうなりたかった?」
「もっと眼が大きくなりたかった。一重じゃなくて二重で良かった。今からでも整形したい。もうわたし、整形する!春休みに、二重にするから!」
一瞬、母は、言葉を飲み込んだ。
傷付けてしまったのだろうか。いや、わたし、じぶんの抱えきれないやるせなさを母にぶつけて、敢えて、傷つけたかったのだ。
「みく…」
眼を潤ませながら、母が口を開いた。
「それ、めちゃくちゃいいアイディアじゃない!!!!二重整形!!ママ、大賛成よ!もっと若かったら、ママも二重になりたいと思っていたわ~~。
で?どこでやる??いつやる??
いま、春休みだから、丁度いいわよね!
(スマホを開いて…)
この高須クリニックとか、いいじゃない!CMで見たわ!
しかも二重切開って、たったの20万円!?安い!!今の時代こんなに安かったんだ!ママもやろうかしら(笑)
ほら、月曜日までに振り込んであげるから、今すぐ、カウンセリング申込みなさい!」
わたしは、唖然とした。本当に、びっくりした。「わたしブスだから、整形する!」→「そんなことないよ、みくちゃん可愛いよ。整形なんてしないで」というグダを歴代彼氏と100回以上繰り返してきたわたし(メンヘラ)は、母からも、当然のように止められて、当然のように、慰めの言葉をもらえると思っていた。
でも、母は違った。
「え…、ママはわたしに整形してほしいの?」
わたしはたずねた。
「して欲しいとはまでは思わないけど、それで悩みが解決できるなら、やるべきでしょう?それにね、みく、お金で解決できる問題は、問題じゃない。人生、お金で解決できない問題の方が多いから。だから、お金で解決できるレベルなら、ぐだぐだせずに、即払う。払い終わったら、また稼ぐ。迷う余地なんてないでしょう?」
そう母に背中を押されたわたしは、高須クリニックの扉をたたいた。結論から言うと、カウンセリングまで受けたのだが、手術は受けることはなかった。
結局、わたしは実行に至るまでの、勇気と覚悟がなかったのである。
お金も時間もあった。でも、わたしは、やらないという選択肢をした。
この経験もあって、わたしは、「整形したい」と二度と言えなくなった上に、わたしが乗り越えることが出来なかった怖さや不安を引き受けて、整形手術に挑戦した人に対しては、心からのリスペクトと拍手を贈るようになった。
たまに、綺麗な芸能人やモデルを指さして、「でも、あの人、けっきょく整形でしょ」と嘲笑う人がいる。わたしは、その心境を全く理解できない。整形はお金さえあれば軽々と出来るものではなく、リスクもあれば、痛みもあり、それに伴う多大なる不安と心理的恐怖がある。それでも美のために、それらのネガティブな面を全て引き受けて、行動に踏み出す姿は本当に尊い。その強さ、行動力は、手術で得られた外見的な美に勝る、内面的な輝きを放つだろう。
2.2 他責ではなく、自責で生きる
小さいころから、一直線に夢をかなえられなかったとき、わたしは、親のせいだ、環境のせいだ、そもそもあの子が持っていて、わたしが持っていないなんて不公平だ、と拗ねては、延々と駄々をこね、現実から逃げ回っていた。
ないものねだりをするクセは今でも残っていて、気を抜くと、すぐにお金がないから、時間がないから、とやれない言い訳を探してしまう。
そんな壁にぶつかったとき、必ず、母の言葉が頭の中をよぎるのだ。
この感情は憧れ?それとも、嫉妬?
なぜ、嫉妬しているくらいなのに、じぶん自身で挑戦してみないのか?
やれないのか?それとも、やらないのか?
やらない理由、それは本当に時間の問題?お金の問題?それとも覚悟の問題?
朝、洗面台の前に立つたびに、鏡の中から真っ直ぐに覗く、ふたつぶの一重の瞳が、毎日毎日、わたしに問いかける。
言い訳をしないこと。常識に流されないこと。本質を見失わないこと。そして、他の誰のせいにするのでもなく、わたし自身が自分の人生を背負っていかなければいけないということ。
これらが、わたしが大好きな両親から引き継いだ、華僑的価値観であろう。
(母のWechat映えに懸けるただならぬ情熱も、実は、ちゃっかり引き継いでしまっていることは、ここだけの秘密)
日々、Twitterにて発信をしています。↓
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今回の記事で、皆さんからいただいたサポートは、母へのプレゼント代にします!!娘+他日本の皆さまからのご厚意と伝えます。