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北条政子に憧れ続けた、人生だった。

だれがロールモデルなのか。じぶんがどうなりたいのか。なににワクワクするのか。

人生の節目が来るごとに、こういった疑問をじぶんに投げることが多い。そして、わたしはこの質問がとても苦手だった。

なぜならば、「これをやりたい」というじぶん自身の夢や願望を抱く機会がとても少なかったから。小学生のころから、「将来の夢は?」と聞かれるのがとても嫌だった。就活を控えた大学生がなにをやりたいのかわからないと頭を抱えている状況を、30を超えたいまでも、共感を感じるのはそういった理由があるだろう。

そういった夢がないコンプレックスも手伝ったのか、わたしは夢を抱くひとに対する憧れがつよい。だからこそだろうか、行き場のない有り余るエネルギーを向ける方位磁石となるような、才能と夢を両方持った天才に対して、強い憧れを感じやすかった。

さいきん、流行った韓国ドラマ、梨泰院クラスのヒロイン、イソのこんなセリフがある。

「ここで働かせてください。夢をかなえてさしあげます」

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このメンタリティがめちゃくちゃ理解できる。傷ついた天才を支えて、翼を授けること。長い間、それが生きがいだった。

その究極系が、北条政子だろう。

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源頼朝が鎌倉幕府を開いたあと、北条政子は御台所(みだいどころ・大臣や将軍の妻)となった。しかし夫の死後、息子たちが暗殺され、また娘にも先立たれるなど、子どもたちが次々と亡くなってしまう。

3代将軍源実朝が暗殺されたことで幕府が弱体化したと考えた後鳥羽上皇は、幕府を倒すことを決意し、幕府の実力者北条義時を討てと全国の武士に命じた。幕府の御家人である武士たちにとっても、雲の上の存在である上皇の命令に背くことは恐ろしいことだった。

当然御家人たちは困り果てた。そんな御家人たちに向かって、北条政子は最期の言葉として次のような声明を発表するのだ。

「源頼朝公の恩は、山よりも高く海よりも深い。皆の者、すぐに逆臣を討って、三代の将軍たちの残した幕府を守り抜きなさい。ただし上皇に下りたいものは、すぐに申し出て上皇に下っても構わない。」

この言葉によって御家人たちはひとつにまとまり、幕府を守るために上皇の軍と戦ったのだった。結果、幕府軍が勝ち、後鳥羽上皇は隠岐島へ流されることになったのである。

こうして、北条政子は、夫の死後ではあるけれども、彼の夢であった幕府を守り抜いたのである。

こんな風に、じぶんが愛した天才を支えて、その夢を守りぬくこと。これが最高に格好良くて、ワクワクすることだなと、生き甲斐だと、20歳からの10年間は駆け抜けてきた。

1.WEB制作

いちばん最初の走りは、20才のころ。「オンラインの誰もが勉強できる場所を作りたい」と、他大学に通う友人Aのビジョンに惚れ込んで、一緒にオンライン大学の先駆けとなるようなサイトを立ち上げるために奮闘した。

サイト構築から、エンジニア探し、デザイナー探しまで。

当時も今も、特にエンジニア探しはとても難航し、周りにいる賢い大人たちに相談しては「そんなめんどうくさくて儲からないサイト、誰も手伝ってくれないよ。じぶんたちで勉強してから作りなよ」との言葉をぶつけられることばかりだった。ただ、いまからわたしとリーダーがいちから勉強を始めても、思い描いたスピード感でプロジェクトを進めることができない。

そう思ったわたしたちは、ビジョンに共感してくれる仲間探しのために、都内の大学、そして専門学校まで駆け回った。チラシを刷って、見知らぬ校舎を駆け巡って、先生に摘み出されたこともあれば、当時はやっていたmixiで「C言語」、「Java」とキーワードを絞っては、同じ大学生エンジニアにメッセージを送りまくった。狂気の沙汰だった。

結果、半年程度で、当初開発に500万円以上は優に掛かると見積もられたサイトをすべてインハウスで仲間内で作り上げることができた。はじめて、友人でも知り合いでもない一般ユーザーが自分たちのサービスを使って、本当にいいね!と言ってくれた姿をみたときは、心の底からから、感無量だった。

そんな友人は、卒業後にゴールドマンサックスに就職したけれども、2年後に退職して、スタートアップ起業家となった。


2.海外への手品ツアー

次に目をつけたのが、手品好きな友人Bだった。共通の友人が主催したマラソン大会で出会ったBは、目を輝かせながら手品への情熱を語りながらも、現実を見据えて、4月からの就職の準備をしていた。

「せっかくなら、卒業前に、手品で大きな思い出を作ろう。やり尽くそうよ」

彼にそんな風にけしかけては、4年生の春休み、彼が社会人になる前の最後の長期休みに、アフリカの子どもたちに手品を披露して回るツアーを提案した。

「趣味でしかやっていないから、手品の技術だって、ツアーの費用も足りない。それにもう12月だよ…。準備時間も足りない。」

いきなりの提案に目を丸くした彼は、自信がなさそうにたじろいた。

大丈夫。わたしに任せて。

そんな風に、彼を説得しては、そこから2週間の間にスポンサーとなってくれるNGO・NPO探しに駆け回っては、手品サークルでサポートしてくれる先輩方から技術面での協力約束を取り付け、更には一緒にツアーに同行してくれるという仲間も2人見つけてきた。

結果、費用的なハードルによって、アフリカは実現しなかったけれども、その代わりに少し近場なスリランカを国内一周しながらの1ヶ月の手品ツアーを実現することができた。

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一緒に最高の思い出を作って帰国したのち、友人は予定通りDeNAへ入社した。

そして、3年後に退職して、プロマジシャンへの道を進んだ。

彼のプロフィールには、いまでも、「大学時代にスリランカに1ヶ月手品ボランティアへ」の一文がクレジットされている。


3.民泊経営

社会人になってからは、親友Cと一緒に民泊を立ち上げた。

彼は、とても心優しく、芸術の才能に溢れていた一面を持っていたけれども、心優しすぎるが故に、誰かと何かを争ったり、損得のために強く主張したりすることが苦手な性格であった。

したがって、就職してから資本主義社会に揉まれては、彼はどんどん目の光を失っていった。

そんな彼が、自信を取り戻して、輝ける場所はなんだろう…。

そう考えたさきが、当時日本に上陸したばかりの民泊ビジネスだった。

「わたしが財務面や不動産仕入れの部分をしっかりと握って、ビジネスとしてのキャッシュフローを担保して、

彼には、いちばん得意なインテリア設計やゲストへのホスピテリティとなるサービス作りにフォーカスさせよう。」

そんな風な役割分担に確信を持ったわたしは、不動産を勉強し、仕入れ続けた。

そうやって、1軒、2軒…と、黒字化次第、次の物件、その次の物件と、1軒1軒オープンさせては、気付いたら5年で、10軒目の物件までたどり着いた。

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ビジネスがうまく回れば回るほど、多くの予算を渡すことができる。すると、彼がじぶんが思い描いていた世界観を実現しやすくなる。見る見るうちに、目の輝き、そして自信を取り戻はじめた彼を見て、わたしは一層やる気が出た。

5年間奮闘した結果、ふたりで築いた少しばかりの貯蓄を手元に、彼は長年だの夢だった医学部への再入学を果たした。

誰よりも心優しくて、繊細で、愛情深い彼に取って、最善の進路となったととても嬉しく思う。

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このほかにも、細かいプロジェクト、途中で頓挫したプロジェクトを数えたらキリがないくらい、身近にいる天才を見つけては、寄りそって…の繰り返しを経験した。

ここ10年間は、ずっとずっと、その繰り返しだった。

それらの経験自体はとても楽しく、ワクワクするものだったけれども、その根本に本当にあるのは、天才への強烈な嫉妬とコンプレックスだ。

なにかの事象や社会課題に対して、熱狂的なほど打ち込める精神性、損得を度外視した情熱。わたしだって、本当はそういうのが欲しかった。だって、そういうのがなければ、いつまで経っても主役になれないじゃん。脇役ばかりの人生だ。そんなのズルイ。駄々をこねる子どものような、そんな不条理な嫉妬を、憤りを感じるほどのコンプレックスを感じていた。強烈に愛しながらも、強烈に嫉妬した。

一見非合理的で、行動もチグハグで、でも狂気じみた熱量を持って取り組んでいる夢がある。

そんな人たちに憧れながら、地団駄を踏みながら、唇を噛みながら、わたしはこれからも生きていくのだろう。

北条政子は、きっと、源頼朝を愛しながらも、強烈に嫉妬していたんじゃないかな。

その嫉妬の中に、じぶんの役割を見つけて、夢を見つけて。

脇目も降らずに駆け抜けた先に、頼朝とともに歴史に刻まれたのだから。

彼女の人生も、案外悪くなかったのかもしれない。

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こうみく
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