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今から25年くらい前の大学時代、年度末とかそんなタイミングだったと思うけど大学のアトリエで製作した作品を自宅に持ち帰る為に同期Aに車を出してもらった事がある。当日は私とその同期ともう1人のB、三人がそれぞれ作品を持ち帰るというプランだった。今考えれば随分と無茶なスケジュールだと思うけど、夕方出発で上野からその当時住んでいた練馬まで行って私を降ろし、Bの部屋がある松戸を経由して車の持ち主である同期Aの実家のある船橋に帰るというルートだった。
その無茶が災したか、不忍通りから大塚辺りを経由して練馬の部屋に向かう道中で、傍から突っ込んできた他所の車(トラックだったかな)にぶつけられて後部ドアを破損するという事故が起きた。車体は凹んだしウインドウも派手に割れた。ちょうど後部座席に座っていた私は車が突っ込んでくる様を真正面で見て気が動転し、ぶつかって来た車を気遣いに行くという訳のわからない行動を取ったりもした。同期Aは自分の運転が下手だからとか保険で何となかるからとフォローしてくれたけれど、その後の処理には当然本人かご家族が当たったはずなので、申し訳ない気持ちは引きづり続けたくせに同期Aに対して事故に関連するアクションを何も起こさなかたのは控えめに考えてもひどい対応だった。練馬で後部ドアウインドウを応急処置で塞ぎ、近くの店で買ったプリングルスを齧って(3枚重ね喰いとかした覚えがある)、気を紛らわせてから私を除く2人は松戸へ出発した。その後も私たちはたまに会えば会話をしたが、卒業後は一度も会うことはなかった。
去年末、その同期Aが亡くなった。癌が原因だったとは後になって聞いた。いつ頃撮影したモノかは知らないけれど通夜で見た遺影は学生の頃に比べて少しふっくらしていて、様々な経験値を得た上でそれでも包容力のある表情を湛えるに至った人生だったんだなと思った。優しげな様子は学生時代のままだった。
先日、出張帰りの車中で、高校時代の先輩が亡くなったと当時の同級生からメッセージが届いた。同じく卒業以来一度も会うことがなかった人だった。彫刻を専攻していたその人は日焼けした健康的な印象と共に僅かに記憶に残っているのみで、思い出せるエピソードはなにもない。2年間の部活動を通じて何度も会話をしたし、学園祭前の夏休みには入場門用の彫刻作品制作の為に泊まり込みで一緒に巨大な発泡スチロールの塊を削ったりしたはずなのに、その人の姿はボヤけたままで像を結ばない。この30年間の事も知らないので、その人の姿は健康的なままだ。だから、その人が自死したという事実が昔の姿と重ならない。
最近引っ越した先がそこそこ近所なので、練馬のアパートのあった場所の様子を見に行った。緊急避難場所として整備するからというので退去したのだった。整備エリアに含まれる近所の一軒家も、当時築数年にも関わらず取り壊されていたのはちょっとした衝撃だった。エリアから外れたクロネコの営業所は相変わらず同じ場所にあった。このクロネコの営業所には思い出がある。当時の年末時には配達員の手が足りなくなるようで、普段は見慣れない人が配達に来ることが多かった。その時も年末で、電話が鳴った。出ると、近くまで来ているんだけど建物がわからないから角の交差点まで取りに来て欲しいという配達員の言い分だった。営業所から目と鼻の先の距離だし、ずいぶん面倒臭そうな言い様にイラついた私は配達するのがアナタの仕事では、などと正論を吐いて電話を切った。ものの数分で荷物を持って来た配達員は悪びれる様子もなかった。
傍には石神井川が流れていて、春には桜が咲乱れていたのを思い出す。芳しくなかった受験結果の記憶と強く結びついて、桜の時期の風景は長く苦手だった。しかし、その感覚も年を経る毎に薄れた。