アイダさん
アイダさんは茨城の出身だと言っていた。さいしょ駿河台にある美術予備校に通い、2浪目から池袋の予備校に鞍替えしたと聞いた。当時は別になにも思わなかったんだけど、後になって何割かの免除の奨学金を受けることができたので池袋に来ることにしたのかもなと考えたことがあった。彼女の2浪目のタイミングで、僕の一浪目の浪人生活も始まったのだった。
アイダさんはタバコを嗜む人で、アトリエの外のロビーで多浪たちと賑やかにおしゃべりをしながらタバコを吸う姿をよく見かけた。その頃はタバコの銘柄に詳しくなかったのでなにを吸ってたのかなんて知らないけど、アメスピかそれに類するくらいにキッツそうなのを好んでいた印象がある。というかその当時の多浪連中は揃いも揃って度数の高そうなタバコを吸っていた。しかも当時の流行りだったのか、ロビーで喫煙している男連中は皆バイク乗りみたいに黒い革ジャンを着て近寄りがたい雰囲気を醸していた。ちなみに僕は22、3の頃に出来心でタバコを吸い始め、34歳くらいでなんとなく吸うのを辞めた。吸っていたのは専らカルい銘柄で、今でもあるのか知らないけれどフロンティアというタール1mgのタバコを好んで買っていた。後はアルファという同じく1mgの銘柄を一時期買っていたことがある。フロンティアかアルファのどちらかの銘柄で一時期お試しでバニラフレバーのタバコを出していたことがあり、それも好んで吸った。しかし葉の燃えるスピードが早く(というか1mgとすら思えないくらいに軽くて、喉ごしを求めて強く吸い込むとあっという間に一本まるまる灰になった)、コスパが悪くてすぐにプレーンなものに戻した。混ぜ物がないから他のタバコほど体に悪くないという誰かのプレゼンを間に受けてアメスピを吸っていたこともある。とは言えタールが一番軽いモノでも3とか6mgくらいあったので、その時期だけ割と頑張って肺を煙で充した。やがてタバコを求めなくなり、最後には半年ほどの貰いタバコ期を経て吸うのを辞めた。
今でも一年に一本ほどのペースでタバコを勧められたりして吸う。吸ってる時は旨いなと感じるけど、2本目が欲しいと思ったりはしない。
話を戻すとアイダさんは黒いエプロンを作業着にしていて、デッサンでも油絵の課題の時でもそのエプロンを纏っていた。いつでもベルボトムのパンツにヒールが高くてラウンド・トゥの靴を履いていた覚えがある。歩く時には早足なので、かつかつかつかつと足音を響かせていた。エプロンの腰のあたりに大きなポケットがあり、そこに画材やらタバコやらを入れていた。とは言え描く時には集中して描く人だった。
4月からGW明けくらいまでは講師と生徒たちのマッチング期間で、僕は4浪して藝大に行ったと言うイチハシという講師の元で木炭紙を真っ黒にしながら壁に自身で貼り付けたモチーフを描き起こしていた。同じお試しクラスには他に6、7人くらいいて、同様に画面を真っ黒にして絵を描いた。それぞれが壁側にイーゼルを向けることになるわけで、イチハシと同い年で浪人時代からイチハシと仲良くしていたらしいアンドウという講師がその様子を修行だの罰ゲームだと揶揄った。しかしそんなアンドウクラスでは1mほどもある竹ひごの先に木炭やら刷毛やらガーゼを括り付けた画材を生徒のそれぞれに用意させ、画面から1.5mくらい距離を取ってモチーフをデッサンさせていた。4、5浪目だというジョン・レノン似のササハラさんが二進も三進も行かないと言う様子で困惑していたのを覚えている。当時はアンドウの意図が全く分からなかったけど、思えば中西夏之のなにかしらのエッサンスを抽出しようと言う狙いがあったのかも知れない。今はもう取り壊された一号館の2Fアトリエは、他のアトリエとは違う何かしら浮ついた空気感が漂っていた。
ともあれ修行みたいな試みの中で飛躍的に表現力を上げた僕は、GW明けくらいの本格的なクラス分けでセキグチとタキナミさんという、割と年配の二人が組むクラスに入れられた。その時にアイダさんも同じクラスになり話すようになった。割と早い時期からアイダさんは絵の上手い人という認識をしていたので、一学期の終わり頃に実施されたコンクールでそれなりの上位の評価を受けた僕の絵を、キミの絵良いなと思ったんだよと言ってもらったことを嬉しく感じた記憶と共に覚えている。こんな絵だ。
全体講評が行われた5号館の3階のアトリエでフィキサチーフを掛けている時のことで、嬉しい気持ちをうまく表現できずに変な表情をしてしまったことを今だに気している。
アイダさんは絵が上手い人という認識はあったけれど、正直に言うと彼女の作品は僕には理解が及ぼなかった。高校生の頃に見惚れた多浪生たちの超絶技巧が施されたデッサンのような分かりやすく上手い絵というディテールを持ち合わせておらず、アメーバーとも細胞ともつかないものが画面を覆い、それらがそれぞれ濃淡や色彩を変えながらモチーフの形状を表していた。僕にはよく分からない高度なロジックによって構図や色彩が決定され、講師らもそれらを神妙な顔つきで批評しているのだった。今にして思えば講師とか周りの人間がアイダさんに対して醸し出す態度がそういう空気感を生み出していたのかも知れない。
しかし理解が及ばないとは言え、彼女の技術力に関して言えば十分に高いことを感じることはできた。構図や色彩バランスやその他絵を描く上で必要ななんやかんやが高いレベルで画面上に結集していた。しかし失礼を承知で言えばアイダさんの絵には爆発力がなく、上手いんだけど決め手に欠けるという気がしていた。
アイダさんが2浪の頃はコンクール等でも常に高い評価を得ていた。そのまま受験期に入って割とスムーズに希望する美大に行くのだろうと傍目に見ていたら彼女は試験に失敗した。
アイダさんが3浪目、僕が2浪目に上がってから別のクラスになった。いや、もしかしたら同じクラスになったのかも知れないけどあまり覚えていない。とにかく僕は自身の2浪目にイチハシの預かるクラスに組み入れられた。
アイダさんは3浪になってからスランプ期に入ったようだった。僕の目からは前年と同様に高レベルな絵を描いているように見えていたが、彼女はずっと冴えない表情を引きずっていた。講評の時なんかには煮え切らない言い回しで講師のアドバイスに応えていた。ということは同じクラスだったのかな。もしかしたら前年の後半頃から既にスランプに入っていたのかも知れない。
僕は僕で自身の迷走を脱しようと踠いていた。とは言え手数多く色んなことを試していたわけでもなく、手立てなく同じところを巡っているだけの無策ぶりを呈していた。
僕は2浪目の前後あたりから校内で実施されているクロッキー実習に参加するようになった。クロッキーを重視するアンドウが講評か何かの折にクロッキー力を鍛えろと言っていたのを受けて始めたのだった。校内クロッキーは希望者が有料チケットを購入して参加するもので、油絵科の生徒の参加者が多かったとはいえ全科を対象にしていた。アイダさんもよく顔を出していたのを覚えている。いつもは行くことのない本館のアトリエにそれなりに重量のあるカルトンを持っていくのを嫌がったアイダさんは、本館のアトリエに備えられた作品収納用の棚板をカルトン代わりにしていた。それに感心した僕も、翌週からそれを真似するようになったのだった。
しばらくして僕は校内のものだけでなく、外部のクロッキー教室にも通うようになった。ただでさえ実力差のあるアイダさんと同じ分量をこなしていてはいつまでも差が縮まらないと考えて、美術手帖に広告を出していた目黒にあるクロッキー教室に行こうと考えたのだった。ちなみに外部のクロッキー教室には示し合わせたわけではないが一浪の頃に同じアトリエだったカミカワや、池袋の予備校油絵科内でクロッキーの超絶な技術力を持つということで有名だったニシヤマさんと会ったことがある。ニシヤマさんとはその後しばらく仲良くさせてもらったが、受験を終えると同時に連絡を取らなくなってしまった。ニシヤマさんがその年にどこかに合格して池袋から離れたからだったような気もする。
クロッキー教室の参加費や画材代を賄うためバイトを始めた。昼間は課題の絵を描き、夜は自由参加の石膏デッサンか週一の校内クロッキー、週末は目黒のクロッキー教室かバイトに通ったりして自分のことで精一杯だった。その頃からアイダさんの姿は細切れでしか記憶にない。普段の声量のボリュームは大きめで、しかもさばけた様子で楽しそうに喋るのだから周りには男女問わず(タバコを吸うので男性の方が割合的には多かったけど)人が集まっていた。当時は煙を嫌がったので僕はそれほど積極的に喋りかけに行かなかったような気もする。茨城弁の「したっけさ」が口癖だった。通学には新聞配達員が乗るような頑丈な図体をした自転車に乗っていた。
彼女がいつまで浪人を続けたのか僕は知らない。その後その身をどのように振って、今どこで何をしているのか知りたい気持ちはあるけれどその手立ては何もない。