自校史に於ける災害について
On the disasters in the history of Kindai University
近畿大学名誉教授・広報室建学史料室特別研究員・博士(歴史学)
荒木 康彦
序
「昭和二十三年の初夏」の「或日の午後」、「長瀬の大阪専門学校」に世耕弘一先生を訪問した時の事を、寺坂八郎元本学常任理事(その当時は、「阪大勤務の文部事務官」)は、回想世耕弘一編纂委員会編『回想世耕弘一』収録の「学園創設の理想」[1]で、次の様に活写している。
「昭和二十三年の初夏」と言えば、終戦後三年近く経過しているが、尚その時期に於ても前身校では世耕弘一先生が自ら焼跡で戦災復興に取組んでおられるような状況であったのは、真に感慨深い。
災害には天災と人災、即ち自然的なものと人為的なものがあり、風水害は前者に属し、戦災は後者の最たる例であろう。「近畿大学 創立70年の歩み」(近畿大学 平成七年)収録の「学校法人近畿大学沿革」によれば、「昭和9年9月21日 室戸台風により校舎大被害」、「昭和20年6月 空襲により校舎一部罹災する」となっている[2]。昭和九年九月二十一日の「室戸台風」による「校舎大被害」とは、具体的にはどの様な状況であったかについて、不分明である(より厳密には、関西地方に於ける昭和九年九月二十一日の「室戸台風」による風水害は、「関西地方大風水害」と言われているが、ここでは便宜上、単に「室戸台風」による被害といった様な表記にする)。「空襲」によって「校舎一部罹災」したのは、昭和二十年六月のいつであったか記載されておらず不明であり、「空襲」による「校舎一部罹災」とは、これまた具体的にはどの様な状況であったのかについて、不詳である。米空軍による大阪大空襲は、通常、次の如く八次に亘って実施されたとされている[3]。
第一次大阪大空襲:昭和二十年三月十三日~十四日
第二次大阪大空襲:昭和二十年六月一日
第三次大阪大空襲:昭和二十年六月七日
第四次大阪大空襲:昭和二十年六月十五日
第五次大阪大空襲:昭和二十年六月二十六日
第六次大阪大空襲:昭和二十年七月十日
第七次大阪大空襲:昭和二十年七月二十四日
第八次大阪大空襲:昭和二十年八月十四日
従って、前身校が「昭和20年6月 空襲により校舎一部罹災」したのは、昭和二十年六月一日の第二次大阪大空襲か、同年六月七日の第三次大阪大空襲か、同年六月十五日の第四次大阪大空襲か、同年六月二十六日の第五次大阪大空襲かの何れによるのかという事でもある。
そこで、「室戸台風」による前身校の被害についての史料や大阪大空襲による前身校の被害についての史料を博捜した結果、これらに関する一次史料等を発見して、先に指摘した不明な点を解明出来たので、それらについて精密に論述する事にしたい。
1
大阪府に於ける室戸台風による被害を報じた当時の新聞記事[4]を具に通読した結果、昭和九年九月二十二日付の『大阪毎日新聞』夕刊掲載の「倒壊、全壊の小學校 大阪市内で卅に上がる」という見出の記事の中で「中河内郡」の諸学校の被害についても触れられ、「中河内郡彌刀村同立小學校二階建舊校舎が倒壊、約百名の死者と數十名の重軽傷者を出した(中略)なほ同時刻同郡意岐部村城東商業學校、高井田村高井田小學校、同郡彌刀村日本大學附属中學校も校舎各一棟が倒壊、監視員をつけてゐたので生徒は無事だつた」[5](便宜上、ルビは省いた)と報じられているのを発見した。
そこで『創立五十周年記念誌 大阪学園 大阪高等学校』( 大阪学園大阪高等学校 昭和五十二年)を繙いたところ、室戸台風による大阪中学校が蒙った被害について簡明に触れられており、「昭和3年建築の中心的校舎」が「轟然たる大音響と共に土煙を上げて一瞬の中に倒壊してしまった」が、その前に生徒を避難させたとされている[6]。そして、注目すべきは、同誌には「倒壊した校舎の前に立つ、竹村(右)、山本(左)両先生。この写真は、瓦などをかなり整理したのちのものである」というキャプションの付いた写真(*1)も掲載されている[7]。
従って、この当時に五棟が存在した「日本大學附属中學校」の建物の中の「昭和3年建築の中心的校舎」一棟[8]が室戸台風で倒壊したという事なのである。
同じ敷地に建っていた日本大学専門学校の校舎については、戦前の室戸台風の被害を示す一次史料は現在までに本学内で発見出来ていない。しかし、国立公文書館で調査した時に閲覧して複写した同館所蔵『大阪専門学校 第5の2号大阪』(分類:文部省47 排架番号3A・10-9・1612)と題する簿冊に関係一次史料を発見出来た。この簿冊に収録されている旧簿冊の表紙では「大阪専門學校設置」(第二教育門 大阪府 第五冊ノ二 (を五))となっており、その目次で「関係番号:二・関係各部:大阪府経由・件名:校舎増築認可・終結年月日:昭一二 一二 八・紙數:一括」となっている文書群が当該史料である。
この文書群に収録されている文書から「校舎増築認可」の流れを辿れば、次の通りとなろう。「日本大學専門學校」(「設立者日本大學」)の「理事 山岡萬之助」から「大阪府知事 池田清殿」宛に「昭和十二年十一月四日」に「別紙御進達相成度此段及御願候也」とする「進達願」が出された。「日本大學専門學校」(「設立者日本大學」)「理事 山岡萬之助」から「文部大臣 木戸幸一殿」宛の「昭和十二年十一月四日」付の「今般當校校舎増築致度候ニ付キ御認可相成度別紙摘要仕様書圖面相添此段及御願候也」とする「御願」が附属している。この「御願」には記載通りの「別紙摘要仕様書圖面」が添付されている。「進達願」・「御願」の何れにも「大阪府 進達 第4621號」の丸型スタンプと「大阪府 12.11.6 4621號」の丸型スタンプが押されている。そして、「日本大學専門学校設立者 財團法人日本大學」宛の「昭和十二年十一月四日申請校舎増築ノ件認可ス」という「私立専門學校々舎増築ノ件 指令案」がこの文書群の冒頭に配置されており、「昭和十二年十二月七日起案」「大専一八九號 裁決定12月8日」と記されおり、先に述べた様に校舎増築認可の「終結年月日:昭一二 一二 八」とされているが、この「増築願」は昭和十二年十二月八日に認可されたと言えよう。
ここで刮目すべきは、この「私立専門學校々舎増築ノ件 指令案」の末尾の「備考」に「用途」「位置」「建延坪」「構造」「工費」「財源」「着工予定日」「竣工予定期日」「鉄鋼量」「増築理由」が列記されている。「用途」は「校舎(教室)」、「位置」は「大阪府布施市小若江二三ノ一(本校所在地)」、「建延坪」は「一三五坪」、「構造」は「鉄筋コンクリート三階建 陸屋根」、「工費」は「九六、七五〇円」、「財源」は「五〇、〇〇〇円ハ借入金ヲ以テ支辯 四六、七五〇円経常費ヨリ支出セントス」、「着工予定日」は「認可ノ日ヨリ」、「竣工予定期日」は「昭和十三年三月末日」、「鉄鋼量」は「約一五〇頓」とされている(この「指令案」の「備考」中では「建延坪」が「一三五坪」となっているが、「御願」に添付されている「別紙」中の「摘要書」では「建築面積」は「第一階」、「第二階」、「第三階」は夫々「一三五坪〇合」、「塔屋」は「三坪〇合」となっている)。そして「増築理由」として、「本校既存ノ木造平建大講堂、及木造平建校舎壹棟ハ昭和九年九月二十一日ノ關西大暴風水害ニ於ケル被害建物ニシテ之カ復興ハ緊急ヲ要スルモノタリ(中略)茲ニ本増築ヲ申請シ來レルモノナリ」と記載されているのである。
そして、「日本大學専門學校」(「設立者日本大學」)「理事 山岡萬之助」から「文部大臣 木戸幸一殿」宛の「昭和十二年十一月四日」付の「御願」にも、「増築理由」が添付され、「本校既存ノ木造平建大講堂及ヒ木造平建校舎各壹棟ハ昭和九年九月貮拾壹日ノ關西大暴風水害ニ於ケル被害建物ニシテ之カ復興事業トシテ鐵筋コンクリート造ニヨル本増築ヲ必要トスルモノナリ。(参考寫眞一葉添付)」と記されている。そして、そこには被害によって「傾斜」し突支棒で支えられた「木造平建大講堂及ヒ木造平建校舎」の「参考寫眞一葉」が貼付されている。
従って、「近畿大学 創立70年の歩み」収録の「学校法人近畿大学沿革」で「昭和9年9月21日室戸台風により校舎大被害」とされているのは、「日本大學附属中學校」校舎一棟倒壊と「日本大學専門學校」の「木造平建大講堂及ヒ木造平建校舎各壹棟」の傾斜という被害であった事が論証出来たと言えよう。
室戸台風で「傾斜」する被害を受けた前身校の「木造平建大講堂及ヒ木造平建校舎」はその後、どうなったかに関して、一次史料に依拠して、簡単に触れておきたいと思う。前掲の簿冊『大阪専門学校 第5の2号大阪』収録の昭和十二年十二月八日裁決定の「大専一八九號」によって認可された校舎の建築に関して、同簿冊収録の昭和十四年一月十一日裁決定の「大専一七九號」の文書群から判断すれば、日中戦争の「進展ニ伴ヒ鉄鋼材使用制限」強化が必要になった為に、「國策」に順応して建築を「一期、二期ニ分チ第一期ヲ鉄筋コンクリート造ヲ以テ完成セシメ第二期区■ハ非常時局解消ヲ俟チ着工セントシ申請二及ヒタルモノ」(■は一文字訂正である)となったのであった。そして、同簿冊収録の昭和十四年四月八日裁決定の「大専三七號」の「私立専門學校校舎改築認可ノ件 指令案」に添付された「備考」では、次の様にされている。
「鐵筋コンクリート造ニヨル校舎建築」が「鉄鋼使用制限ノ関係」から 「計畫ノ1/2ヲ実施」(言い換えれば、建築計画を「第一期」と「第二期」に分けて、前者のみを実施)するに止めざるを得なかったので、前身校の「被害建物」である「木造平家建大講堂一棟及ヒ木造平家建校舎一棟」を含めた木造の建物は、「校舎敷地内ニ移轉改築スルコト」になったのである。
2
昭和二十年六月に空襲によって前身校の校舎が「一部罹災」した件について、世耕弘一先生は「藍綬褒章受賞記念パーティー挨拶」(昭和三十八年十二月)に於て、次の様に懐顧しておられる[9]。
実に重要な証言であり、空襲による被害が具体的に「重要な建築物が九棟灰じんに帰しておった」とされているのである。しかも、その空襲の時期が、前身校の校舎を宿営としていた陸軍の「暁部隊」が撤収した数日後であったとされている。
大阪専門学校の近藤登元学生主事は 、昭和二十年六月の空襲とそれによる校舎の被害について、その著書『近畿大学発展史 この目が見た風雪七〇年』(浪速社 平成十年)に於て、「私が四国へ旅行中の六月十五日、布施、東大阪は大空襲をうけて、学校は九棟を焼かれた。」と述べ、「事務館、慰霊殿、柔道場、銃器庫、元工学校北舎、厩舎、医務室、旧講堂、南校舎」を挙げ、「本館」の「一階全部が焼失。」としている[10]。
ここで挙げられている個々の建物の名称については尚検討の必要はあるが、「重要な建築物が九棟灰じんに帰しておった」という世耕弘一先生の証言と基本的には一致しており、しかも注目すべき事には、それが昭和二十年「六月十五日」となっている。しかし、近藤登元学生主事は「四国へ旅行中」の為にこの空襲による校舎の焼失を目撃している訳ではなく、昭和二十年六月には既述の如く大阪は四次に亘る大空襲を蒙っているから、この陳述だけで空襲による前身校の校舎の焼失が昭和二十年六月十五日と確定するのは性急過ぎるであろう。近藤登元学生主事の陳述部分で「一階全部」が焼失した「本館」とされているのは、前掲の「近畿大学 創立70年の歩み」に掲載されている[11]「新本館(昭和15年)」というキャプションが付けられた写真(*2)に写っている建物であると判断される。
私が昭和約五十一年以来書き綴っている研究・業務日誌によれば、平成二十五年九月八日に、「 日本大學大阪専門學校増築記念」とされている五葉組の絵葉書を古書肆の戦前期の絵葉書の山から発見した(これらの五葉の絵葉書については他の機会に改めて詳しく報告したい)。詳しい論証の提示はこれまた他の機会に譲るが、この「 日本大學大阪専門學校増築記念」の絵葉書は昭和十五年に配布されたものである。その中の一葉が「本館及前庭ノ遠望(日本大學大阪専門學校増築記念)」と題する絵葉書であり、これが近畿大学 創立70年の歩み」掲載の「新本館(昭和15年)」の写真と一致する事が確認出来た。従って、昭和十五年に「増築記念」として撮影されたこの「本館」が、昭和二十年に空襲によって一階部分が焼失しただけで残った「本館」であると言えよう。
また、近藤登元学生主事の陳述部分で「慰霊殿」という建物も焼失したとされており、前述の如くこの建物の名称も尚検討の余地があるが、これが奉安殿との関連性を持つか否かを今後検討する必要があろうと思われる。因みに、前身校に於ける奉安殿に関連する一次史料としては、大阪府立公文書館所蔵『御真影奉護照會一件 昭和十年度 御真影奉護照會一件書綴 總務部秘書課』(簿冊登録番号:0000000163)[12]に収録されている「大阪府總務部長」宛ての昭和十年五月二十三日付「日大中發八七號 日本大學大阪中學校長深川重義」の回答及び昭和十年五月二十一日付「日本大學大阪専門學校長代理小野村胤敏」の回答(両校共に御真影は「未拜戴」と回答しているから、この時点ではまだ奉安殿は建立されていないと推測される)が発見出来ただけで、それ以外には前身校に於ける奉安殿に関連する一次史料は未発見である。その為に、これについての研究は進んでいないが、他大学では奉安殿研究が進捗している例もあるので、本学においても実証的な奉安殿研究が為される必要がある。そうした意味からも、前身校に於ける「慰霊殿」という建物が昭和二十年の空襲で焼失したとされるこの陳述は、決して看過出来ないのである。
また、近藤登元学生主事のこの陳述に於て、前身校の「焼失した」建物の中にある「旧講堂」とは、昭和九年の室戸台風による「被害建物」である「木造平家建大講堂」が昭和十四年に「校舎敷地内ニ移轉改築 」されたものに外ならないが、同じく「被害建物」で「校舎敷地内ニ移轉改築 」された「木造平家建校舎」が「焼失した」建物の何れであるかは俄かに判じ難い。
東大阪市史編纂委員会編『東大阪市史 近代2』(東大阪市 平成九年)では、昭和二十年「六月一五日は早朝からの第四次大阪大空襲で、B29四四四機、焼夷弾三一五トンと第一次をはるかに上回る規模であった」[13]とされ、この空襲による被害について、次の様に叙述されている[14]。
しかしながら、この叙述部分では依拠する一次史料は具体的に明示されていない。従って、前身校が空襲によって損害を蒙ったのは昭和二十年六月十五日であるという説の補強にはなるが、これによる事実確定には至らない。
因みに、この東大阪市史編纂委員会編『東大阪市史 近代2』では「六月一五日の空襲で焼失した大阪理工科大学には、陸軍の歩兵部隊が分駐している。」[15]とされているが、これは正確ではないだろう。先に掲げた世耕弘一先生の証言によると「本校は大阪の暁部隊の営舎として没収されて」いた訳であり、「暁」は陸軍の船舶部隊の「兵団文字符」だからである[16]。防衛省防衛研究所所蔵史料「元船舶部隊一覧表 昭二三、三、一 船舶残務整理部」[17]によれば、「船舶司令部」の「編成地」や「終戦時の位置」は「廣島」、「同東京支部」の「編成地」や「終戦時の位置」は「東京」、「同阪神支部」の「編成地」や「終戦時の位置」は「大阪」、「同廣島支部」の「編成地」や「終戦時の位置」は「廣島」となっている。従って、第四次大阪大空襲直前まで、前身校の校舎を「営舎」としていたのは、厳密に言えば、「陸軍の歩兵部隊」ではなくて、陸軍の船舶司令部阪神支部の部隊だったのである。
3
大阪大空襲に関して、当時の新聞には空爆を蒙った地区程度位しか報道されておらず、何れにも具体的な施設の空襲による損害は報道されていない。例えば、昭和二十年六月十六日付『朝日新聞』朝刊掲載の「四度び大阪を暴爆 B29三百以上来襲 東部、周邊に焼、爆混投」という見出しの記事では大阪への空襲及びその被害については、「中部軍管區司令部、大阪警備府發表」[18]として、次の様に報道されている(便宜上、振り仮名は省いた)程度である。
かくの如く、前身校の空襲による焼失の事実は、昭和二十年当時の新聞記事からは知ることは出来ない。
アメリカ側の一次史料として、大阪大空襲を八次に亘って実施したアメリカ第二十一爆撃軍団(XXI Bomber Command、後の第二十航空軍 20th Air Force)の「戦術作戦任務報告」(Tactical Mission Report)の抄訳が、大阪大空襲研究会訳『大阪大空襲に関するアメリカ軍資料 アメリカ第21爆撃軍団戦術作戦任務報告』(大阪府平和祈念戦争資料室 昭和六十年)として出版されている。そこに収録されている第21爆撃機軍団司令部「戦術作戦報告」(作戦任務 第203号・飛行 1945年6月15日)の「戦術説明」の「1.作戦任務の確認」では、「指定された目標」は「(1)有視界およびレーダーによる第1目標 大阪・尼崎都市地域」・「(2)第2目標および最終順位目標は選定されなかった。」とされ、「2.戦術と作戦計画」では「目標の重要性」として、次の様に述べられている[19]。
この報告には、それ以上の詳しい爆撃地域は言及されておらず、事の性質上、前身校に対する空襲の如き細かい点についても無論記載されていない。
そこで、戦時下の日本に対する内在的(immanent) 理解の元に、大阪大空襲の被害の記録があるとすれば、当時の大阪府警察局の文書に有るのではないかと判断して、博捜した結果、該当一次史料を見出すことに成功した。それは、大阪府警察局警務部警備課情報係の小松繁警部補(当時)が残した「昭和二十年 参考書類綴 小松警部補」である。これは、幸いにして、「大阪大空襲に関する警察局資料 I -小松警部補の書類綴より-」(松原市史編さん室編「松原市史資料集 第6号」松原市史役所 昭和五十一年)と「大阪大空襲に関する警察局資料 II -小松警部補の書類綴より-」(松原市史編さん室編「松原市史資料集第7号」松原市史役所 昭和五十一年)として翻刻されており、その後者に収録されている「極秘」と特記された「警備親五〇七号 昭和二十年六月二十二日」20に昭和二十年六月十五日の第四次大阪大空襲に関する報告が記されており、そこに「第六被害状況 三特殊被害状況」として掲げられた一覧表(三十九頁に掲載)の中に「三、学校関係」として五校名が列記されているが、その中の一校として「布施 私立日本大学専門学校 全焼」とあるのを発見出来たのである。昭和二十年六月十五日の第四次大阪大空襲直後に警察による現場検証が為され、その結果が直後の同月二十二日に纏められたと考えられる公式の報告に於ける陳述であるから、史学理論的に言えば「可信性」(Glaubwürdigkeit)がきわめて高いのである。要するに、発見したこの一次史料によって、前身校が昭和二十年六月十五日に第四次大阪大空襲によって全焼とも言うべき損害を蒙ったという事実確定が出来た訳である。
結
以上の論証から、「近畿大学 創立70年の歩み」収録の「学校法人近畿大学沿革」にある「昭和9年9月21日 室戸台風により校舎大被害」は、具体的には「日本大學附属中學校」校舎一棟倒壊と「日本大學専門學校」の「木造平建大講堂及ヒ木造平建校舎各壹棟」の傾斜という被害であった事を解明出来たのである。また、この「学校法人近畿大学沿革」にある「昭和20年6月 空襲により校舎一部罹災」については、昭和二十年六月十五日に第四次大阪大空襲によって、前身校の「重要な建築物が九棟」が焼失し、辛うじて焼失を免れた当時の本館も深刻な被害を蒙った事、当時の大阪府警察局の基準では前身校は全般的に言って「全焼」と判断される程の壊滅的な大損害を蒙った事を解明出来たのである。
追記
本稿で言及している人士には、基本的に敬称を用いていないので、この点は諒とされたい。原典尊重の観点から引用史料の表現・漢字は、原則として、そのままにしている。引用部分に誤りがある場合は、当該箇所に「ママ」と付記している。この論文のイメージ写真の出典は本文中に記してある。
注
[1].寺坂八郎「学園創設の理想」(回想世耕弘一編纂委員会編『回想世耕弘一』回想世耕弘一 刊行会 昭和四十六年 一一九-一二〇頁)。
[2].「近畿大学 創立70年の歩み」(近畿大学 平成七年)四十五頁。
[3].大阪大空襲については、主に小山仁示『大阪大空襲―大阪が壊滅した日―』(東方出版 昭和六十年)、小山仁示『大阪にも空爆があった』(大阪国際平和センター 平成三年)を参照した。
[4].昭和九年九月二十二日付の「大阪毎日新聞」夕刊掲載「倒壊、全壊の小學校 大阪市内で卅に上がる」。「大阪毎日新聞」は毎日新聞社のデータベース「毎索」で閲覧して利用した。
[5].『創立五十周年記念誌 大阪学園 大阪高等学校』( 大阪学園大阪高等学校 昭和五十二年)三十九頁。
[6].『創立五十周年記念誌 大阪学園 大阪高等学校』三十九頁。
[7].『創立五十周年記念誌 大阪学園 大阪高等学校』三十九頁。
[8].『創立五十周年記念誌 大阪学園 大阪高等学校』三十九頁。
[9].世耕弘一「藍綬褒章受賞記念パーティー挨拶」(昭和三十八年十二月)近畿大学世耕弘一先生建学史料室企画・編集『学ぶこころ-近畿大学建学者・世耕弘一-』(日本図書センター 平成十四年)一一四頁。
[10].近藤登『近畿大学発展史 この目が見た風雪七〇年』(浪速社 平成十年)同書一一二-一一三頁。
[11].「近畿大学 創立70年の歩み」(近畿大学 平成七年)十四頁。
[12].大阪府立公文書館所蔵『御真影奉護照會一件 昭和十年度 御真影奉護照會一件書綴 總務部秘書課』(簿冊登録番号:0000000163)に収録されている「大阪府總務部長」宛ての昭和十年五月二十三日付「日大中發八七號 日本大學大阪中學校長深川重義」の回答及び昭和十年五月二十一日付「日本大學大阪専門學校長代理小野村胤敏」の回答。
[13].東大阪市史編纂委員会編『東大阪市史 近代2』(東大阪市 平成九年)八七六頁。
[14].東大阪市史編纂委員会編『東大阪市史 近代2』(東大阪市 平成九年)八七六頁。
[15].東大阪市史編纂委員会編『東大阪市史 近代2』(東大阪市 平成九年)八七七頁。
[16].原剛・安岡昭男編『日本陸海軍辞典』(新人物往来社 平成十年)収録「附録2 兵団文字符」。秦郁彦編『日本陸海軍綜合辞典」第二版(東京大学出版会 平成十七年)七四七頁では「船舶司令部(陸軍)」は「戦時に陸軍の船舶業務に任じる機関」とされ、堀川恵子著『暁の宇品』(講談社 令和四年)八頁では「船舶司令部は、戦地へ兵隊を運ぶ任務とともに、補給と兵站(前線の部隊に軍需品や食糧を供給・補充すること)を一手に担った」とされている。
[17].防衛省防衛研究所所蔵史料「元船舶部隊一覧表 昭二三、三、一 船舶残務整理部」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C14020308300。
[18].昭和二十年六月十六日付『朝日新聞』朝刊掲載「四度び大阪を暴爆 B29三百以上来襲 東部、周邊に焼、爆混投」。『朝日新聞』は朝日新聞記事データベース「聞蔵 II ビジュアル」で閲覧して利用した。
[19].大阪大空襲研究会訳『大阪大空襲に関するアメリカ軍資料 アメリカ第21爆撃軍団 戦術作戦任務報告』(大阪府平和祈念戦争資料室 昭和六十年)収録の第21爆撃機軍団司令部「戦術作戦報告」。九十八頁。
[20].「大阪大空襲に関する警察局資料 II -小松警部補の書類綴より-」(松原市史編さん室編「松原市史資料集 第7号」松原市史役所 昭和五十一年)収録の「警備親五〇七号 昭和二十年六月二十二日」。
写真:
*1「倒壊した校舎の前に立つ、竹村(右)、山本(左)両先生。」:『創立五十周年記念誌 大阪学園 大阪高等学校』( 大阪学園大阪高等学校 昭和五十二年)三十九頁。
*2「新本館(昭和15年)」:「近畿大学 創立70年の歩み」(近畿大学 平成七年)十四頁。
(2023年10月31日公開)
(2024年6月28日更新)
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