前身校のキャンパス変遷に関して
On the transitions of the campus Kindai University's predicessor school
近畿大学名誉教授・広報室建学史料室特別研究員・博士(歴史学)
荒木 康彦
校史関係の貴重な史料とも言うべき「日本大學大阪中學校落成記念」絵葉書五葉を令和五年一月十日に入手出来た。この絵葉書だけではなくて、今迄に発見・入手した前身専門学校等の絵葉書や「学則要覧」掲載の校舎の写真の時期について考察する為に、前身専門学校の校舎建設や敷地に関する公文書等の一次史料を綿密に検討した結果、それらの時期を解明出来ただけではなくて、前身専門学校時代のキャンパスの変遷を辿る事も出来たので、今回はその点に関して聊か立ち入って報告したい。
昭和五十一年に近畿大学に着任して以来、日々記している研究・業務日誌に立脚して、前身校の史料として入手した絵葉書や小冊子と夫々の入手時期をここで改めて列挙すれば、以下の通りである。
(1)「日本大學大阪専門學校増築記念」絵葉書五葉:平成二十五年九月八日に入手
(2)「日本大學附属日本工學校全景」絵葉書一葉:令和三年七月五日に入手
(3)「日本大學専門學校學則要覧」:令和三年十月十八日に入手
(4)「日本大學大阪中學校落成記念」絵葉書五葉:令和五年一月十日に入手
そして、(1)の五葉とは、以下の通りである。
➀「 日本大學大阪専門學校本館(日本大學大阪専門學校増築記念)」(*1)
➁「本館及前庭ノ遠望( 日本大學大阪専門學校増築記念)」(*2)
③「第一校舎及ビ大講堂( 日本大學大阪専門學校増築記念)」(*3)
④「學園鎮座ノ楠公神社( 日本大學大阪専門學校増築記念)」(*4)
⑤「第一實習場内部 (日本大學大阪専門學校増築記念)」(*5)
次に、(2)の「日本大學附属日本工學校全景」(*6)は既に第二期第十四回(通算第二十三回)勉強会で既に報告した通り、関西大学年史編纂室所蔵『小野村胤敏氏関係史料 日本大学(大阪)専門学校 1』収録「日本大學附属日本工學校案内」掲載の校舎全景写真と同一のものが絵葉書にされたものである。
それから、(3)に関しては既に「第2期第15回(通算第24回)勉強会」で報告した通り、(3)の四頁には「日本大學専門學校 校舎」の写真(*7)が掲載されている。
更に、(4)は「日本大學大阪中學校落成記念」と印刷された畳紙(*8)に、以下の五葉が収納されている。
➀「全景」(*9)
➁「屋上ヨリ金剛山脈ヲ望ム」(*10)
③「理化學實驗室」(*11)
④「國旗掲揚塔」(*12)
⑤「廊下」(*13)
史学理論的には、文献史料が「陳述史料」であるのに対して、写真そのものは「沈黙史料」であり、別の史料操作が必要である。絵葉書も被写体が文献ではない限り、基本的には「沈黙史料」に属する訳であるが、絵葉書は被写体の表題が印刷されていたり、裏面に消印が押されていたり通信文が記されている場合があり、その限りでは「陳述史料」としての性格も有する事にもなる。絵葉書に消印が押されている場合や通信文が記されて場合を除けば、絵葉書の被写体の具体的な年代は正確には認識できず、そこに絵葉書を史料として取り上げる場合のアポリアが存する。それ故に、関連文献史料と併せて「史料批判」(Quellenkritik)の俎上に載せる事によって初めて絵葉書も史料としての価値が発揮出来ると言えよう。
Max Weber(1864-1920)の社会行為に関する理論によれば、人間の社会行為の背後にある「主観的動機」を「理解する」(verstehen)事によって、より厳密な因果帰属が可能になる。上掲の史料には、「増築記念」や「落成記念」と記されている事から、その被写体の校舎の完成を祝い、その事を周知せしめるという様な動機によるものである事は喋々する要はない。そこで、上掲の史料に於て被写体となっている校舎の建設年代を確認する為に、「近畿大学創立70年の歩み」(近畿大学 平成七年発行)に掲載されている「学校法人近畿大学沿革」から関係年代等を抜粋すると、以下の通りである。
国立公文書館所蔵の「大阪専門学校 第5の1号 大阪」簿冊所収の「日本大學専門學校設立認可」(大専三四號 大正十四年五月十五日終結)文書収録「専門學校設立認可願」(大正十三年七月三十一日)に附属する文書である「資産調書」によれば、「總額貮拾参萬圓也」、その「内譯」の中に「六萬圓、土地五千坪一坪拾弐圓ト見積(後略)」、「参萬圓、校舎二百九十坪(八月三十一日落成圖面及仕様書添附)」となっている。同じく附属する文書「土地寄附者氏名住処」では、「大阪市東区上本町六丁目 大阪電気軌道株式會社」と「大阪府中河内郡弥刀村小若江 武村亀二郎」が挙げられている。同じく附属する文書「寄附申込書(写)」では「大阪市西区土佐堀通壱丁目八番地 深川重義」から「日本大学理事 山岡萬之助」宛に「金参萬七阡圓」が「日本大學専門學校々舎弐百六拾坪建築費トシテ寄附申込候」となっている。そして、「校舎新築設計圖」の青写真も添付されており、その中の「正面」と題する図(*14)の建物は「近畿大学創立70年の歩み」十二頁掲載の写真「本館(大正14年)」(*15)であり、その平面図(*16)によれば校舎はL字型の構成の建物である事が分かる。
「大阪専門学校 第5の1号 大阪」簿冊所収の「日本大學専門學校々舎増築ノ件」(大専一八九號 大正十五年十一月二十五日結了)収録の日本大學理事平沼騏一郎より大阪府知事中川望宛の「日本大學専門學校増築」の「申達願」(大正拾五年参月弐拾七日)に附属する「摘要書」によれば、「使用目的 日本大學分校講堂」、「位置 大阪府中河内郡弥刀村小若江日本大學分校敷地内」、「敷地面積 五〇〇〇坪二合五勺」、「建築面積合計 一六〇坪二合」、「起工期日 大正拾五年参月参拾壹日」、「竣工期日 大正拾五年五月拾日」となっている。「近畿大学創立70年の歩み」十二頁に「講堂(昭和3年)」として掲載されている写真(*17)の建物が、この「日本大學分校講堂」である。
以上から、大正十五年に日本大學専門學校発足時には約五千坪の敷地に 二百九十坪の校舎が竣工していたのみであり、その直後に約一六〇坪の講堂が竣工したという事になる。
更に「大阪専門学校 第5の1号 大阪」簿冊所収の「日本大學専門學校々舎増築認可」(大専125號 昭和一〇年二月二二日結了)収録の日本大學専門學校設立者財團法人日本大學理事山岡萬之助より文部大臣鳩山一郎宛の「當校校舎増築」の「御願」(昭和八年十月十九日)に附属する別紙「増築理由」では「既設校舎ニテハ狭隘ヲ感スルト同時ニ既設校舎ハ木造ナルヲ以テ不燃質ノ校舎ヲ必要トスルヲ以テナリ」とされている。同じく附属する文書「寄附申込書(写)」では「大阪市東区博労町貮丁目六拾八番地 小野村胤敏」から「金貮萬圓」が「日本大學専門學校校舎建築資金」として「昭和九年ヨリ昭和拾貮年ニ於テ毎年金五千圓宛拂込可致候也」となっている。そして、「摘要書」によれば、「用途 日本大學専門學校々舎」、「位置 大阪府中河内郡弥刀村大字小若江二八七ノ一」、「敷地面積 五〇〇〇坪〇合〇勺」、「建築面積合計 八二八坪七合」、「竣工期日 昭和九年三月三十一日」となっている。『創立五十周年記念誌 大阪学園大阪高等学校』(大阪学園大阪高等学校 昭和五十二年十一月一日 四十頁)に「完成した新校舎 昭和8年頃、専門学校は旧校舎にかえて鉄筋三階建の新校舎を建設した。この新校舎の教室の一部を本校が使用していた。」というキャプションの付された写真(*18)が掲載されており、被写体の「新校舎」がここで取り上げている増築校舎であるが、上掲の史料から勘案すれば「昭和8年頃」という記述は誤りであろう。
ここで見逃してならないのは、「学校法人近畿大学沿革」で「昭和9年7月 榊原坤作病気のために小野村胤敏理事代理、校長代理就任」となっているのは、小野村胤敏先生の寄附によって鉄筋三階建の校舎が増築され、前身専門学校への貢献が認められた結果だという事である。
「第2期第15回(通算第24回)勉強会」で報告した様に、先に掲げた「日本大學専門學校学則要覧」は発行年代を欠くが、「日本大學専門學校」という校名と「理事代理 校長代理 小野村胤敏」写真が印刷されている事から、昭和九年七月から昭和十年十一月迄の間に発行されたと判断されるのであり、その四頁に「日本大學専門學校 校舎」(*7)として掲載されているのは、昭和九年三月三十一日竣工の鉄筋三階建の校舎の写真である。
昭和二年三月十八日に認可され(昭和二年三月二十二日「官報 第六五號」掲載「文部省告示第百三十號」)、「学校法人近畿大学沿革」にある様に同年四月十六日に開校した日本大學大阪中學校の校舎は、『創立五十周年記念誌 大阪学園大阪高等学校』(二十一ー二十二頁)掲載の「昭和7年頃の本校の鳥瞰図」(*19)に於て見られる様に、敷地の南西部に建つ大小五棟がそれである。
因みに、同じ敷地の中央部にL字型で建てられているのが、前身の専門学校の校舎及び講堂である。ところが、「第2期第16回(通算第25回)勉強会」で報告した通り、昭和九年九月二十一日の室戸台風で日本大學専門學校の校舎は傾斜する被害を受け、日本大學大阪中學校の校舎の中の長大な二階建校舎一棟が倒壊した。
日本大學大阪中學校の校舎再建に関する史料は、当然ながら国立公文書館所蔵の日本大學専門學校の簿冊には見出せないが、関西大学年史編纂室所蔵『小野村胤敏氏関係史料 日本大学(大阪)専門学校 1』収録の史料の中に以下の二点を発見出来た。
(i)昭和十年十一月二十五日付『日本大學専門學校学友會報』掲載の中川繁次「燦然と輝く大櫻門學府 全日本大學の沿革を語る」
(ii)「日本大學大阪中學校平面圖」(*20)
(i)によれば、昭和九年九月「大風害に因り中學校舎倒壊す。十二月中學校舎新築に着手十年五月落成す。」となっている。特に可信性の高い史料と見做す事が出来る(ii)では、L字型の木造「在来校舎」の西に位置するのが「鉄筋コンクリート三階建 在来校舎」とされており、それが昭和九年三月三十一日 に竣工した校舎であり、その南に接合する「新築校舎 鉄筋コンクリート三階建 建坪 344.25坪」とされているのが、日本大學大阪中學校の新築校舎と判断される。しかも、この(ii)の史料には「新築校舎概要」が記されており、それによれば「昭和九年十二月 新校舎地鎮祭執行」、「昭和十年一月第一期工事着手」、「昭和十年四月 第一期工事竣工」、「總延坪 三四四坪二合五勺」となっており、(i)と(ii)の間に陳述の矛盾が無い。因みに、小野村胤敏先生の校舎建築による前身専門学校への貢献が認められ、「学校法人近畿大学沿革」にある様に「昭和10年11月 理事兼第五代目校長に理事代理、校長代理小野村胤敏就任」に繋がるのであろう。
そして、この「中學校舎」が昭和「十年五月落成」した時の記念として配布されたのが、前掲の「日本大學大阪中學校落成記念」五葉の絵葉書であったと、判断される。その中の「全景」(*9)は日本大學大阪中學校校舎だけではなくて、日本大學専門學校校舎も含めての全景となっている。「屋上ヨリ金剛山脈ヲ望ム」(*10)では、学校の周囲に人家が少なく、耕作地が広がっている様子が分かる。その中の「理化學實驗室」(*11)は「日本大學大阪中學校平面圖」の「新築校舎概要」の中に記載されている「物化教室」に該当するものであるが、「國旗掲揚塔」(*12)は「日本大學大阪中學校平面圖」に基いて厳密に言えば、「鉄筋コンクリート三階建 在来校舎」とされる日本大學専門學校校舎の南端部分であろう。「廊下」(*13)は「日本大學大阪中學校平面圖」に於ける「新築校舎 鉄筋コンクリート三階建」平面図で認められる建物内の東側に南北に伸る廊下であろう。
山口定亮本学元理事の回想「池中の蛟竜」によれば、「昭和九年九月室戸台風が大阪地方に来襲、日本大学大阪専門学校(近大前身)は全壊した。私は小野村校長を援けて財政面で協力し、官公私立の各学校に魁けて、数か月で復興させ学校の名声大いに挙ったので、日本大学山岡万之助総長は翌年十月先生と私を柳橋、柳光亭に招き盛大なる祝宴を催された。(後略)」(回想世耕弘一編纂委員会編『回想世耕弘一』回想世耕弘一 刊行会 昭和四十六年 八十九頁)とされているから、「 学校法人近畿大学沿革」で「昭和10年11月 理事兼第五代目校長に理事代理、校長代理小野村胤敏就任」となっているのは、小野村胤敏先生の敏腕によって日本大學大阪中學校の鉄筋三階建の校舎が速やかに増築された事が認められた結果というのが再確認出来る。
しかるに、「 学校法人近畿大学沿革」によれば、「昭和11年10月 日本大学大阪中学校位置変更認可」、「昭和12年4 月 日本大学大阪中学校大阪市東淀川区相川町移転独立経営」となり、恰もそれと入れ替わる様な形で「昭和12年1月14日 日本工学校(乙種)設立認可」となっている。
この様な経緯を物語る史料は未だ見出せていないが、「第2期第14回(通算第23回)勉強会」で報告した様に、「昭和十三年度入學案内」が収録されている事から昭和十二年度中に配布されたと判断される関西大学年史編纂室所有「日本大學附属 日本工學校入學案内」には校門越しに撮影された「校舎」の写真が収録されており、それは先に挙げた絵葉書「日本大學附属日本工學校全景」(*6)(令和三年七月五日に入手)と同一のもである。従って、この絵葉書は日本工學校の設置を記念して昭和十二年度に配布された可能性が高いと言えよう。
国立公文書館所蔵『大阪専門学校 第5の2号 大阪』収録「大阪府経由 日本大學専門學校校舎増築認可」に関する文書群の冒頭には、「日本大學専門学校設立者 財團法人日本大學」宛の「昭和十二年十一月四日申請校舎増築ノ件認可ス」という「私立専門學校々舎増築ノ件 指令案」(「大専一八九號 裁決定12月8日」)が配置されており、その末尾の「備考」には「用途」・「位置」・「建延坪」・「構造」・「工費」・「財源」・「着工予定日」・「竣工予定期日」・「鉄鋼量」・「増築理由」が列記されている。「用途」は「校舎(教室)」、「位置」は「大阪府布施市小若江二三ノ一(本校所在地)」、「建延坪」は「一三五坪」、「構造」は「鉄筋コンクリート三階建 陸屋根」、「工費」は「九六、七五〇円」、「財源」は「五〇、〇〇〇円ハ借入金ヲ以テ支辯 四六、七五〇円経常費ヨリ支出セントス」、「着工予定日」は「認可ノ日ヨリ」、「竣工予定期日」は「昭和十三年三月末日」、「鉄鋼量」は「約一五〇頓」とされている。そして「増築理由」として、次の様に記載されているのである。
そして、「日本大學専門學校」(「設立者日本大學」)「理事 山岡萬之助」から「文部大臣 木戸幸一殿」宛の「昭和十二年十一月四日」付の「御願」にも、「増築理由」が添付され、次の様に記されている。
しかも、そこには突支棒で支えられた「日本大學専門学校」の「木造平建大講堂及ヒ木造平建校舎」の「参考寫眞一葉」(*21)が貼付されているのを見出した。
そして、ここで刮目に値するのは、以下の様な「借入金明細」が添附されている事である。
以上から、前身の専門學校長小野村胤敏先生が、昭和十二年に同専門學校校舎増築の為に「金五萬圓」の大阪府北河内郡交野村「交野無盡金融株式會社よりの借入金」の「擔保提供者」となっている事が分かるのである。
そして、校舎増築に呼応するかの様に、校舎敷地の拡張がなされ、『大阪専門学校 第5の2号 大阪』収録の昭和十二年十二月十五日裁決定の「大専一七九號」の「私立専門學校ノ地変更の件」では「日本大學専門學校設立者 財團法人日本大學」に対して「昭和十三年十月十日附申請校地変更ノ件」が認可され、その「備考」によれば、以下の様になっている。
しかしながら、『大阪専門学校 第5の2号 大阪』収録の昭和十二年十二月八日裁決定の「大専一八九號」によって認可された校舎建築の計画は、その後変更を余儀なくされるのである。同簿冊収録の昭和十四年一月十一日裁決定の「大専一七九號」の「日本大學専門學校々舎建築着工期延期ノ件」の文書群に収録されている「日本大學専門學校 設立者日本大學理事 山岡萬之助」より「文部大臣 荒木貞夫殿」宛の昭和十三年十月十日付の「御願」によれば、以下の様になっている。
この「御願」に対しては「昭和十三年十月十日附ヲ以テ日本大學専門學校々舎建築着工期延期ニ関シ伺出有之タル処右ハ申越ノ通処理相成差支無之」とされ、添付された「備考」では以下の通りとなっている。
日中戦争の「進展ニ伴ヒ鉄鋼材使用制限」強化が必要になった為に、「國策」に順応して建築を一期、二期に分け、第一期を鉄筋コンクリート造で完成させ、第二期は「非常時局解消」を待って着工するのを申請したという事であろう。
この様な経緯で、第一期工事によって完成された鉄筋コンクリート造の校舎が、「学校法人近畿大学沿革」で昭和十三年三月に竣工したとされる「 本館改築(初の鉄筋コンクリート3階建1,421㎡)」と判断されるのである。
だが、第二期工事は「非常時局解消」を待って着工する事になった結果、在来の木造校舎等を移築・改修して再利用せざるを得なくなったと推測され、同簿冊収録の昭和十四年四月八日裁決定の「大専三七號」の「私立専門學校校舎改築認可ノ件」に関する文書群に収録されている「日本大學専門學校 設立者 日本大學理事 山岡萬之助」より「文部大臣 荒木貞夫殿」宛の昭和十四年三月十日付の「御願」に依れば、「今般當校校舎移転改修至度候ニ付キ御認可相成度別紙適用書及仕様書相添此段及御願候也」となっている。そして、「私立専門學校校舎改築認可ノ件 指令案」に添付された「備考」では、次の様に記されている。
「鐵筋コンクリート造ニヨル校舎建築」が「鉄鋼使用制限ノ関係」から 「計畫ノ1/2ヲ実施」するに止めざるを得なかったので、前身校の「被害建物」である「木造平家建大講堂一棟及ヒ木造平家建校舎一棟」を含めた木造の建物は、「校舎敷地内ニ移轉改築スルコト」になったのである。
以上の様な、前身校に於ける校舎の建設、校舎敷地の拡張、校舎の増築・移築・改修等の結果、前身校のキャンパスはどの様に変貌したのかが探られなければならない。
国立公文書館所蔵「自大正15年2月至昭18年2月 大阪専門学校 第109号」収録 の昭和十五年二月十四日裁決定「大専五號」の文書群は、冒頭に配された「大阪専門學校學則中変更認可案」の「備考」にある様に、「本校ニ理學科ヲ新設スルニ伴フ学則変更」に関するものであり、この文書群に立脚して前身専門学校が日中戦争の時局に対応して理系教育に重心を移す経緯を「第2期第13回(通算22回)勉強会」で詳細に報告した。この簿冊に収録される他の文書群に比して非常に大部であるこの文書群の中に、理学科設置を契機にして変貌を遂げた前身専門学校のキャンパスの様子が知られる「校舎配置圖」(*22)が含まれているのを見出す事が出来た。
そこから伺えるは、以下の通りである。
(a)名称が書き込まれた建物は前身専門學校関係の建物であり、名称が書き込まれていない三棟の建物はそれ以外、即ち日本工學校や日本工業學校関係の建物であると理解される。
(b)「校門」から入ると正面に建っている「教室」が昭和九年三月三十一日に竣工した鉄筋コンクリート三階建の前身専門學校の校舎である。
(c)その南に隣接する建物が昭和十年四月に日本大學中學校の校舎として竣工した鉄筋コンクリート三階建である。
(d)その北に隣接するのが大正十五年五月十日に竣工し、昭和十四年に「移轉改築」された前身専門學校の講堂である。
(e)池に背を向けている「教室」二棟が創設時以来の校舎で、 昭和十四年に「移轉改築」されたものと判断される。
(f)敷地の東辺には昭和十五年二月十四日に「設置認可」された前身専門學校理学科の校舎二棟や実習室四棟や実験室・製図室一棟が配置されている。
(g)実習室の西には「食堂」が独立した建物として存在したいる。
(h)「校門」を入って左に建つのが、昭和十三年三月に竣工した前身専門學校の「本館」である。
(i)当時の敷地の北東隅には「楠公神社」が建立されている。
(j)当時の敷地の北西隅には「武道場」が建築されている。
従って、昭和十五年に前身専門學校に理学科が設置され、それに伴うキャンパスの整備が「校舎配置圖」に見られるような姿で行われたのであり、それを記念して配布されたのが「日本大學大阪専門學校増築記念」絵葉書五葉であったと判断される。その中の「 日本大學大阪専門學校本館」(*1)は(h)の「本館」を斜め前から撮影したものである。「本館及前庭ノ遠望」(*2)は(c)の昭和十年四月に竣工した鉄筋コンクリート三階建の屋上から撮影したものであり、本館の東隣に(e)の校舎の西端が写っている。「第一校舎及ビ大講堂」(*3)には(b)及び(c)の校舎及び(d)の大正十五年五月十日に竣工して昭和十四年に「移轉改築」された前身専門學校の講堂が写っている。講堂は(b)及び(c)の鉄筋コンクリート校舎に合わせて外壁が塗装されている様である。「學園鎮座ノ楠公神社」(*4)は(i)の楠公神社を正面から撮影したものであり、神社が校内に建立されていた事は注目される。「第一實習場内部 」(*5)は(f)の四棟の実習室の何れかの内部を撮影したものであろう。
これまた「第2期第13回(通算22回)勉強会」で指摘した様に、法学・商学等の文系教育を中心にしたコンパクトな専門学校という性格の前身校が、昭和十五年の理学科設置によって、理系教育も包含して質的変化を遂げ、しかも規模を拡大した事は、 理系学部も充実した総合大学としての近畿大学の成立に至る歴史に於て、刮目すべきエポックであるのを意味する。昭和十五年の理学科設置はそれだけに止まらず、今回報告したように、キャンパスの様相の変貌をも齎す結果となったというべきであろう。
最後に、今後の課題に触れておきたい。 国立公文書館所蔵「自大正15年2月至昭18年2月 大阪専門学校 第109号」収録 の文書群の中で年代的に最も新しいのは、昭和十七年三月二十日裁決定「大専二五號」の「私立専門學校學則中変更認可ノ件」である。その認可「案」の「備考」によれば「本件ハ學則第二條ノ定員」を改めるものであり、具体的に言えば、現行学則第二條では「修業年限」を「三年」、「生徒定員」を「法學科第一部 二一〇名」・「法學科第二部 四五〇名」、「商學科第一部 七五〇名」・「法學科第二部 四五〇名」、「理學科第一部 一、三二〇名」・「理學科第二部 六〇〇名」となっているのを、改正学則では「修業年限」を「三年」、「第一学年ニ入學ヲ許可スル生徒定員」を「法學科第一部 七〇名」・「法學科第二部 二五〇名」、「商學科第一部 二五〇名」・「商學科第二部 二五〇名」、「理學科第一部 四四〇名」・「理學科第二部 二六〇名」とするものになっている。要するに、この「學則第二條」変更の狙いは、「法學科」・「商學科」・「理學科」の「第二部」の定員の増加であったと言えよう。この文書群に「日本大學大阪専門學校 教室及實習室平面圖」の青写真が収録されているを発見したが、昭和十五年二月十四日裁決定「大専五號」の「大阪専門學校學則中変更認可案」の文書群に収録されている「校舎配置圖」に比べて、この「教室及實習室平面圖」では「教室」や「實習室」の建物の数が若干変化している。しかしながら、これに対応する肝心な校舎増築願申請書は公文書の中には未だ見出せないので、この時期の前身専門学校のキャンパスの様相の考察は、この「教室及實習室平面圖」を裏付ける可信性(Glaubwürdigkeit)の高い陳述史料の発見を俟って、行うしかないであろう。
追記
本稿では近畿大学関係者のみは「先生」としたが、それ以外の人士については敬称を省いているので、この点は諒とされたい。
原典尊重の観点から引用史料の表現・漢字は、原則として、そのままにしている。
冒頭写真:「校舎新築設計圖 正面」(国立公文書館所蔵の「大阪専門学校 第5の1号 大阪」簿冊所収の「日本大學専門學校設立認可」(大専三四號 大正十四年五月十五日終結)文書収録「専門學校設立認可願」(大正十三年七月三十一日)に添付
(2023年12月26日公開)
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