
世耕弘一先生のベルリンに於ける足跡
Koichi Seko's footsteps in Berlin
近畿大学名誉教授・広報室建学史料室特別研究員
博士(歴史学) 荒木康彦
序
2023年は、世耕弘一先生が留学の為にドイツのベルリンに赴かれてから、丁度100年目にあたるので、最近の10年間に採取した関係史料を再検討し、そこから新たな史料を採取・分析し、そして更により厳密な考察を志向して研究を行った。本稿では、その成果を踏まえて、特に世耕弘一先生のベルリンに於ける足跡について考察し、先生のベルリンに於ける留学生活の一端を探る事にしたい。
I
世耕弘一先生の「隠退蔵物資摘発の真相」と題する論説[1]では、終戦直後の隠退蔵物資摘発活動の意図について以下のように陳述されており、ドイツ留学中の知見が先生のこの活動を基礎付けている事は今更喋々する必要もない。
(前略)私は第一次欧州大戦直後にドイツに行き、僅か二十四、五億円の金銀其他を供出することによつてレンテンマルクという新札が発行され、あの恐ろしい天文学的数字と称されたドイツの大インフレが一夜のうちに片づいてしまったことは目の前で体験しているのである。
もし、われわれが隠退蔵されたダイヤモンドにより、金銀塊により、そういうような手を打つことができれば日本のためにどれだけ幸福だかわからない。隠退蔵物資の処理がインフレ克服にどれほど深い関係をもつかということを、皆さんは深く認識してもらいたい。(後略)
世耕弘一先生のベルリンに於ける留学生活に関する史料としては、久しく先生の回想「ドイツ留学の憶い出」[2]が知られているに過ぎなかった。そこで、根本史料とも言うべきこの回想に於ける陳述に立脚して、最近の10年の間に関係史料の発見に努めてきた。その結果、発見出来た重要な関係一次史料及び可信性(Glaubwürdigkeit)の高い史料を挙げると、以下の通りである。
➀山岡萬之助先生宛の世耕弘一先生の1923年11月2日付書簡(学習院大学法学部・経済学部図書センター所蔵「山岡萬之助関係文書」整理番号H172)
➁山岡萬之助先生宛の世耕弘一先生の同年11月19日付書簡(学習院大学法学部・経済学部図書センター所蔵「山岡萬之助関係文書」整理番号H173)
③山岡萬之助先生宛の世耕弘一先生の1924年10月10日付書簡(学習院大学法学部・経済学部図書センター所蔵「山岡萬之助関係文書」整理番号H174)
④山岡萬之助先生宛の世耕弘一先生の同年10月11日付書簡(学習院大学法学部・経済学部図書センター所蔵「山岡萬之助関係文書」整理番号H175)
⑤日本大学作成「大正十五年一月十九日」付「世耕弘一」(学習院大学法学部・経済学部図書センター所蔵「山岡萬之助関係文書」整理番号F-IV-16)
⑥岡崎邦輔宛の山岡萬之助先生の1926年1月12日付書簡(学習院大学法学部・経済学部図書センター所蔵「山岡萬之助関係文書」H75)
⑦世耕弘一「小林先生との深い因縁」(高山福良・原嶋亮二編集『小林錡先生』小林錡先生顕彰会 1963年)
⑧朝日新聞本社『自大正十一年至大正十五年 社員異動簿 (大阪 東京)』収録の「世耕弘一」の欄(朝日新聞大阪本社所蔵)
⑨『海外旅券下付表 二一八巻 大正自十二七月至九月』の「東京府」19丁裏の「世耕弘一」の欄(外務省外交史料館所蔵)
➉世耕弘一『𝔇𝔢𝔲𝔱𝔰𝔠𝔥𝔢 𝔖𝔭𝔯𝔞𝔠𝔥-𝔲𝔫𝔡 𝔖𝔱𝔦𝔩𝔩𝔢𝔥𝔯𝔢 獨逸語並に文骵論』(寶文館 1927年)(近畿大学中央図書館所蔵)
⑪日本大学内日本法政学会刊行『日本法政新誌』第24巻第3号(1927年)収録「◎二留学生の帰朝」
ここで先ず予め、世耕弘一先生が留学したとされるベルリン大学(正式名はFriedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin)に触れておくと、ベルリンの中央部の大通りウンター・デン・リンデン( Unter den Linden)にある同大学について、前掲の関係諸史料では次の様に陳述されている。「ドイツ留学の憶い出」に於ては、後に詳しく考察する事になる「プリルー教授」に触れた件で「主としてベルリンで二、三の大学教授について勉強した」[3]、 「ベルリン大学へ行くよりも、プリルー家の娘さん達と一緒に、家庭で勉強させて貰った時間の方が多かった」[4]とされている。そして、「大正十五年一月十九日」に日本大学で作成された、七項目から成る「世耕弘一」と題する⑤の文書では、「二、學修セル學校 獨逸伯林大學」と明記されている。更に、⑪の記事では「小錡學監は渡欧後直にベルリン大學に本科生として入學を許可せられ主として刑法、法理學及び政治學を研究し世耕氏は同じくベルリン大學の研究室において政治學及び經濟學を専攻したものである。」[5]となっている。19世紀以来ドイツの大学で学んだ日本人について考察すると、実に様々な形態や資格で留学している事が分かる。例えば、学籍簿に登録した学生の外に、聴講生、教授の許可を得てゼミナールに参加する者、同じく許可を得て研究室で個別研究に従事する者等である。かの森林太郎の場合は、ミュンヘン大学(Ludwig-Maximilians-Universität München)では学籍登録しているが、ベルリン大学では学籍登録せずに教授のローベルト・コッホ(Robert Koch 1843-1910)が総括する衛生研究所で研究に従事している[6]。以上を勘案して、ベルリン大学側の史料で日本人学生としての世耕弘一先生について調査途上である事を報告しておきたい。
Ⅱ
ここで、世耕弘一先生のベルリンに於ける足跡を辿る事に限定するならば、先に掲げた史料の中で特に重要となるのは、➀の書簡・➁の書簡・③の書簡・④の書簡・⑤の文書・➉収録の「はしがき」及び「ドイツ留学の憶い出」であるので、これらに依拠して考察を進めると、以下の様になる。
先ず第一に、世耕弘一先生のベルリンに於ける下宿のアドレスについてであるが、「ドイツ留学の憶い出」では下宿の事が、以下の様に、可成り具体的に陳述されている[7]。
(前略)私がベルリンで下宿していた家の人は、非常によい人だった。私はベルリンに着いた最初からその家に下宿して、五年間ずうと居った。現在は西ドイツの方になっているが、ベルリンのウイルマルスドルフという街のヒンデンブルグの名前のついた八十何番地かで、ハンス・ウイルデという二階建ての家であった。(後略)
ベルリン到着直後発信の➀の書簡では、封筒の裏側には以下の様になっており、下宿のアドレスは記されていない。
K.Sekoh
Japanische Botschaft
Berlin,Deutschland
在独逸伯林
日本大使館気付
世耕弘一
➁の書簡・③の書簡・④の書簡に於ても、大略同様にベルリンの日本大使館気付と記されている(後に、詳しく言及するBerliner Adreßbuch 1927 のDritter Band によれば、日本大使館の所在地はHildebrandstraße 25、領事館の所在地はHindersinstraße 4となっている)。従って、それ等から世耕弘一先生のベルリンに於ける下宿のアドレスは知ることは出来ない。1927年の12月20日に刊行された➉の本では「はしがき」[8]が書かれた時及び場所については、以下の様に記されている。
千九百二十七年の春
獨逸ベルリン、ヒンデンブルヒ街の
假の宿にて しるす
ここから、先ず以って、世耕弘一先生の下宿がベルリンのヒンデンブルク通りにあった事が、同時期の史料によって確認出来る。
1920年に成立した大ベルリン(Groß-Berlin)には20の区が存在していたが、世耕弘一先生が「ドイツ留学の憶い出」で言われている「ウイルマルスドルフという街」とは、西南部の区であるヴィルマルスドルフ(Wilmersdorf)区の事であろう。現在のベルリンでは、ヴィルマルスドルフは近接するシャルロッテンブルク(Charlottenburg)と合併して、シャルロッテンブルク・ヴィルマルスドルフ(Charlottenburg -Wilmersdorf)区となっているが、現在のこの区には「ヒンデンブルグの名前のついた」通りは存在しない。だが、洵に僥倖としか言いようがないが、戦間期にドイツで発行された英文ベルリン旅行案内書を1975年に古書肆で購入していたのを卒然と思い出し、深更にこの本を茅斎で書架から取り出し掃塵して、一穂の寒燈の元で紐き、改めて仔細に閲読すると、1923年に刊行されたものであった。即ち、それはカール・ベーデカー『ベルリンとその近郊-旅行者の為のハンドブック』(Karl Baedeker,Berlin and its Environs-Handbook for Travellers-,Sixth Edition, Leipzig 1923)である。本書の10-11頁の間に収録されている大ベルリンの全体の折込地図の南西部分のWilmersdorf区内にHindenburgstraßeを見出す事が出来た。更に本書の巻末部分に収録されている3枚の大型折込詳細地図の中の大ベルリンの南部のものを参照すると、名称変更されて、現在のベルリン地図には見いだせないヒンデンブルク通りの様子がやや詳しく確認出来た。この通りは、ヴィルマルスドルフ区内で東西に長く延びる通りであった事が分かる。そこで、世耕弘一先生の下宿のヴィルデ宅が、ヴィルマルスドルフ区にあるこの通りの何番であるかを確定する必要が生じた。
そこで、この点を解明すべく史料探索を行った結果、Digitale Landesbibliothek Berlin(デジタル・ベルリン州立図書館)でBerliner Adreßbuch(「ベルリン住所録」、これは「公的な資料の利用に基いて」Unter Benutzung amtlicher Quellenとされているものであるから、「可信性」が高いと思われる)が公開されているのを見出し、1923-1927年間の各年に刊行されたものを閲覧すると、それぞれのErster Band(第1巻)とZweiter Band(第2巻)にベルリンのEinwohner(居住者)がアルファベット順に網羅的に掲載されている。それで、それらを悉くかなり長時間に亘り丹念に閲読して、Wilde姓でWilmersdorf区のHindenburgstraßeに居住する者のをピックアップすると、以下の如くなる。
Berliner Adreßbuch 1923,Zweiter Band,S.3510.
Wilde,Johannes,Kaufm.,Wilmersdf.,Hindenburgstraße 82 I.
Berliner Adreßbuch 1924,Zweiter Band,S.3510.
Wilde,Johannes,Kaufm.,Wilmersdf.,Hindenburgstraße 82 I.
Berliner Adreßbuch 1925,Zweiter Band,S.3502.
Wilde,Hans,Kaufm.,Wilmersdf.,Hindenburgstraße 82 I.
Berliner Adreßbuch 1926,Zweiter Band,S.3644.
Wilde,Johannes,Kaufm.,Wilmersdf.,Hindenburgstraße 82.
Berliner Adreßbuch 1927,Zweiter Band,S.3768.
Wilde,Jahannes,Kaufm.,Wilmersdf.,Hindenburgstraße 82.
ここに記載されているJohannesとHansの一方がファーストネームで、もう一方がミドルネームであったと理解出来、同一人物であり、「ドイツ留学の憶い出」で表記されている「ハンス・ウイルデ」であろう。職業がKaufm.即ちKaufmann(商人)となっているのは、「ドイツ留学の憶い出」に於て下宿していた家の主人は「昔は軍隊へ服などを納入する御用商人で、そのころはライヒナーという有名な化粧品問屋の支配人のようなことをしていた」[9]という陳述と矛盾しない。
ここで、非常に長い通りであるヒンデンブルク通りの82番の建物が、この通りのどの辺に存在したのかという文字通りのアポリアに逢着するのである。これを解き明かすのに非常に長い時間を要したが、その鍵を Berliner Adreßbuch 1926,Dritter Bandに見出し得た。このDritter Band(第3巻)のStraßen und Häuser von Berlin(ベルリンの通りと家屋)という表題のIV.Teil(第4部)には、ベルリンの総ての通りの各建物毎に居住者(Einwohner)の氏名が羅列されており、ヒンデンブルク通りの部分では、82番に36人の居住者の中にWilde,J.,Kfm.(J. ヴィルデ、商人)と記載されているだけでなくて、この通りの略図が掲載されている。それを見ると、東西に細長いヒンデンブルク公園(Hindenburgpark)を取り囲む様な形でヒンデンブルク通りが展開しており、そこに北東から反時計回りに番号が所々に表示されている。同公園南側のヒンデンブルク通りに南北に走るシュラム通り(Schrammstraße)が接する西角が85番となっているから、その少し西がヴィルデ宅の82番となろう。また、Web上で年代的にやや後の1937年当時のベルリン地図を見出して閲覧した結果、矢張りヒンデンブルク通りとシュラム通りが接する西角が85番となり、そこから西に84、83、そして82と番号が付されているのが認められた(https://digital.zlb.de/viewer/berliner-adressbuecher/)。現在のベルリン地図で該当する場所を参照すると(https://www.openstreetmap.org)、公園南側の旧ヒンデンブルク通りはアム・フォルクスパルク(Am Volkspark)という名称の通りとなっており、旧ヒンデンブルク通り82番はアム・フォルクスパルク 81番に相当すると思われる。更に、「Googleストリートビュー」を利用して旧ヒンデンブルク通り82番と思しきアム・フォルクスパルク 81番の現状を見ると、かなり古い中層の建物が認められる。以上の様に積み上げた考察の結果を踏まえて、「ドイツ留学の憶い出」に於ける下宿が「二階建ての家」だったという陳述を解釈するならば、それは一戸建ての「二階建ての家」という意味ではなくて、旧ヒンデンブルク通り82番の建物の中の2階層住戸がヴィルデ宅だったと判断すべきであろう。
それから、第二に取り上げるべきは 、「ドイツ留学の憶い出」によれば、世耕弘一先生がベルリンで頻繁に訪問したとされる「プリルー教授」宅である。同教授については、「ドイツ留学の憶い出」では以下の様に陳述されている[10]。
(前略)ドイツでは、主としてベルリンで二、三の大学教授について勉強したが、特に私をよく指導してくれたのはプリルーという音楽の先生で、私は家庭的にもプリルー教授の一家とは非常に親密ににして貰ったので、ベルリン大学へ行くよりも、プリルー家の娘さん達と一緒に、家庭で勉強させて貰った時間の方が多かった。(後略)
そして、「プリルー教授」のフルート奏者としての経歴やその家庭について触れた後に、同教授から常に言われていた、次の様なアドヴァイスの言葉が記されている[11]。
「お前はドイツに何年いるつもりかしらんけれど、大学に行って講義を聞いてもよくわかるまい。本だって、そんなに買って一時に読めるものではない。それよりもドイツをよく見てゆけ。ドイツをよく見てゆくこと、ドイツ語をしっかりやっておくことが一番大切だ。ドイツという国とドイツ語をしっかり覚えてゆけば、日本に帰ってから何年経ってもドイツの本が読めるだろう。これが留学の秘訣だ。」
このアドヴァイスに従って、「主として本を読むことを中心に勉強した」[12]のであり、帰国後に出版した『𝔇𝔢𝔲𝔱𝔰𝔠𝔥𝔢 𝔖𝔭𝔯𝔞𝔠𝔥-𝔲𝔫𝔡 𝔖𝔱𝔦𝔩𝔩𝔢𝔥𝔯𝔢 獨逸語並に文骵論』は、「プリルー教授からいわれた、基礎からしっかりやれという教えに基づいて書いたものであった」[13]。そして、「プリルー教授の家庭でも、二人のお嬢さんを中心に時折りパーティーをやるから来いと誘われもしたもので、そんな時には各国の留学生が集まった中に、私がいつも主賓の席にすえられたりした。」[14]のであった。
かくの如く留学中の世耕弘一先生に多大な影響を与えた、ベルリン在住フルート奏者として令名を馳せていた「プリルー教授」は、音楽家の経歴が収録されている各種の文献に依拠して検討した結果、1912-1934年間にベルリンの音楽大学(Hochschule für Musik)の教授を務めたエミール・プリル(Emil Prill 1867-1940)と判断される[15]。この人物のアドレスを、1923-1927年に限定して、前掲の Berliner Adreßbuch で調べた結果、以下の如くなる。
Berliner Adreßbuch 1923,Erster Band,S.2455.
Prill,Emil,Prof.,Charlottenbg.,Leonhardstraße 5 III.T. Wilh.7627.
Berliner Adreßbuch 1924,Erster Band,S.2337.
Prill,Emil,Prof.,Charlottenbg.,Leonhardstraße 5 III.T. Wilh.7627.
Berliner Adreßbuch 1925,Erster Band,S.2475.
Prill,Emil,Prof.,Charlottenbg.,Leonhardstraße 5 III.T. Wilh.7627.
Berliner Adreßbuch 1926,Erster Band,S.2552.
Prill,Emil,Prof.,Charlottenbg.,Leonhardstraße 5 III.T. Wilh.7627.
Berliner Adreßbuch 1927,Erster Band,S.2638.
Prill,Emil,Prof.,Charlottenbg.,Leonhardstraße 5 III.T. Wilh.7627.
以上から、 エミール・プリル教授の住居は、世耕弘一先生の下宿のあったヴィルマルスドルフ区の北隣であるシャルロッテンブルク(Charlottenburg)区に レオンハルト通り(Leonhardstraße) 5 III番であった事を見出せた。「ベルリン大學の研究室において政治學及び經濟學」を研究する世耕弘一先生が、如何なる経緯で、ベルリン音楽大学のプリル教授の知遇を得る事になったかの解明は、今後の課題としたい。
更に、第三に取り上げなければならないのは、世耕弘一先生が、以下に引用する①の書簡に記されている『朝日新聞』を閲覧した場所とされる「日本人倶楽部」である。
(前略)折柄突然日本人倶楽部に於て日本
大学小石川及九段に於て開校すとの朝日新聞記事を
拝見実際あの時位嬉しき事無之人前も憚からず
思はず母校万歳先生万歳をとなへ申候(後略)
➁の書簡でも「讀賣新聞記事を見て嬉しかつた故同封致し申候御一覧賜度候」つまり『讀賣新聞』に山岡萬之助先生の記事が掲載されているのを世耕弘一先生が見出されて嬉しかったので、切り抜きを同封したので御一覧を賜りたいと記されており、『讀賣新聞』を閲覧した場所も、「日本人倶楽部」であったと推測される[16](調査の結果、切り抜かれて同封された記事は、1923年9月14日付『讀賣新聞』掲載の「小石川巣鴨の災を救った山岡局長のお手柄」という見出しの記事である事が判明した)。①の書簡で「日本人倶楽部」と言われているのは、以下の諸史料に見られる「独逸日本人會」とその実態が合致するので、これだと思われる。在独特命全権公使小幡酉吉(1873-1947)が外務大臣幣原喜重郎(1872-1951)に1931年12月6日に提出した報告[17]では当時ドイツに在留した日本人が組織していた五団体についての調査結果が報告されており、その中に「獨逸日本人會」がある。これによれば、「獨逸日本人會」は1923年に創立され、所在地はベルリンのビュロウ(Bülow)通り2番となっている。そして、1936年にベルリンで日本人向けに刊行された野一色利衛(1909-?)著『獨逸案内』によれば、『獨逸日本人會』(Japanischer Verein in Deutschland)は「伯林在住の邦人」から構成され、官庁・会社・銀行・商店等の団体に属する人々を団体会員とし、留学生、旅行者を普通会員とするものであり[18]、「日本人相互の親睦を図り、常に有益な見學等を催して」おり、「日本の新聞、雑誌、碁、将棋、麻雀、撞球等を備へ日本食堂も設けて」いた[19]。『獨逸案内』によれば、1936年当時の「独逸日本人會」の所在地は、世耕弘一先生の下宿と同じ区であるヴィルマルスドルフ区のカイザー・アレー(Kaiser Allee)200番であった。
しかしながら、従来、世耕弘一先生のベルリン留学時代の「独逸日本人會」、所謂「日本人俱楽部」の所在地はドイツ側の一次史料で確認出来ていなかったので、その所在地が何処か確定出来なかった。だが、前掲のBerliner Adreßbuch の1923-1927年の分を丹念に閲覧した結果、漸く「独逸日本人會」の以下の如くアドレスを見出し得た。
Berliner Adreßbuch 1925,Dritter Band, S.138.
Bülowstraße 2.
Doittu Nihonjinkai Jin-
nusho,Japan Klub T.
Berliner Adreßbuch 1926,Dritter Band ,S.145.
Bülowstraße 2.
Doittu Nihonjinkai Jin-
nusho,Japan Klub T.
Berliner Adreßbuch 1927,Dritter Band ,S.144.
Bülowstraße 2.
Doittu Nihonjinkai Jin-
nusho,Japan Klub T.
JinnushoはJimushoの誤植と思われる。しかも、その当該頁にはビュロウ通りの略図が掲載されており、この通りがノッレンドルフ広場(Nollendorfplatz)に面する角が1番とされているから、その手前がビュロウ通り2番である事が分かる。
Ⅲ
ここで、眼を転じて、当時のベルリンに日本人が何人ほど在留していていたのかを巨視的に考察しておくと、以下の通りである。1924(大正13)年6月30日現在でドイツ国内に在住する日本人を職業別に纏めた「独逸在留帝国臣民職業別表」を、ハンブルク駐在の総領事花岡止郎(?-1942)が外務大臣幣原喜重郎に同年8月10日に提出している[20]。この複雑な表に挙げられている数字を必要な限りで簡明に整理すると、以下の通りである。
ドイツ国内在住の「本邦内地人合計」:1175人(男性:1089人・女性:86人)
その内の「本業者」:1094人(男性:1077人・女性:17人)
その内の「家族」: 81人(男性: 12人・女性:69人)
ベルリン内在住の「本邦内地人合計」: 977人(男性: 934人・女性:43人)
その内の「本業者」: 935人(男性: 931人・女性: 4人)
その内の「家族」: 42人(男性: 3人・女性:39人)
(表記は原典尊重の観点から原史料のままにしている)
そして、ここで重要なのはベルリン市内に在留する「本邦内地人」の中の「本業者」935人内で、1番多いのは「教育関係者」で377人(男性376人・女性1人)という点である。因みに、2番目に多いのは「医師」、3番目に多いのは「官吏」、4番目に多いのは商社等に勤務する「会社員」で、以上で合計約700人になる。この「教育関係者」の男性376人 の一人が、世耕弘一先生という事になろう。
結
以上、厳密に考察した如く、1923-1927年間にドイツ留学中の世耕弘一先生は、ベルリン市西南部のヴィルマルスドルフ区のヒンデンブルク通り82番のヴィルデ宅に止宿して、ベルリン中心部のウンター・デン・リンデンのベルリン大学での研究以外は、西北部のシャルロッテンブルク区のレオンハルト通りの5 III番のエミール・プリル教授宅を頻繁に訪ねて種々の教えを受け、西南部のシェーネベルク区のビュロウ通り2番の「独逸日本人會」、所謂「日本人俱楽部」で日本の新聞を閲覧する等して母国の情報を獲得するという生活を過ごしておられたと思われる。
追記
原典尊重の観点から、総ての引用史料部分の表記等はそのままにしている。但し、ドイツ語史料のフラクトゥーア(Fraktur)活字体は、基本的には便宜上ローマ字活字体に変換して翻刻した。ここで取り上げた人士については、本学関係者のみ「先生」とした以外は、敬称は省いた。Web上で史料を閲覧した時のURLは、2024年11月10日に確認したものを記している。
注
[1]世耕弘一『自由國民』第7号(時局月報社 1947年)14頁。
[2]世耕弘一「ドイツ留学の憶い出」は、桜門文化人クラブ編『日本大学七十年の人
と歴史』第2巻(洋洋社 1961年 )11-18頁に所収。以下、本書は『日本大学七十年の人と歴史』第2巻と略す。
[3]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻13頁。
[4]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻13頁。
[5]日本大学内日本法政学会刊行『日本法政新誌』第24巻第3号(1927年)130頁に収録の「◎二留学生の帰朝」。
[6]荒木康彦『桂太郎と森鴎外-ドイツ留学生のその後の軌跡-』(山川出版社 2012年)69-70頁及び72頁。
[7]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻14-15頁。
[8]世耕弘一『𝔇𝔢𝔲𝔱𝔰𝔠𝔥𝔢 𝔖𝔭𝔯𝔞𝔠𝔥-𝔲𝔫𝔡 𝔖𝔱𝔦𝔩𝔩𝔢𝔥𝔯𝔢 獨逸語並に文骵論』(寶文館 1927年)(近畿大学中央図書館所蔵)の「はしがき」。
[9]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻15頁。
[10]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻13頁。
[11]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻13-14頁。
[12]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻14頁。
[13]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻14頁。
[14]『日本大学七十年の人と歴史』第2巻17頁。
[15]Deutsche Biographische Enzyklopädie,Band 8.,München 2007,S.80.
[16]切り抜かれて同封されていた1923年9月14日付『讀賣新聞』 掲載の「小石川巣鴨の災を救った山岡局長のお手柄」という見出しの記事は、「ヨミダス歴史館」で閲覧して確認した。
[17]外務省外交史料館所蔵「昭和六年在外邦人諸団体関 係一件 三」収録「在当地本邦人諸団体調査報告」。外務省外交史料館で閲覧した。
[18]野一色利衛『獨逸案内』(歐州月報社 1936年)19-21頁。以下、本書は『獨逸案内』と略す。
[19]『獨逸案内』 掲載の「独逸日本人會」の広告。
[20]外務省外交史料館所蔵「大正十三年海外在留本邦人職業別人口調査一件 第二十七 在歐洲各館」収録「独逸在留帝国臣民職業別表」。外務省外交史料館で閲覧した。
写真:ブランデンブルク門(近畿大学所蔵Aufnahmen von Sasha Stone,herausgegeben von Adolf Behne,Berlin in Bildern,Wien und Leipzig 1929収録)とベルリン地図(部分)(荒木康彦所蔵Karl Baedeker,Berlin and its Environs-Handbook for Travellers-,Sixth Edition,Leipzig 1923収録)
(公開日 2024年12月11日)