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文字を書く。素晴らしい日だ。

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来てたもれ〜。このままじゃ売り上げ0部になっちゃうよ〜。

「時には、火花のように。」は300Pで900円。
比較的オトク、いわゆる買い得ではないでしょうか。

冒頭もnoteで公開してます。
文体とか読み心地とか、ご興味ある方ない方一読いただけますとありがたいです。

文字を書く。素晴らしい日だ。

この世にあるものは実体を伴う。
手で触れることができ、目で見ることができる。
または耳で聞くことができ、鼻で嗅ぎ取ることができ、舌で味わうことができる。
実体とは人間の五感を通してこの世に実存する、というのは人間の主観だ。
その五感を離れたところにも観測できる事実としての実体は存在する。

例えば非可聴域の音波は存在しているが人間の五感で検知はできない。
しかし、結局その機械が五感の検知を代替しているに過ぎず、実体を認知するのはやはり人間だ。

ところが、認知されない実体を持つモノがある。
物語である。
僕たちの周りには無限の物語が存在する。

30年を生きた自分の人生。
今、乗っているバスが作られてから今に至るまで。
子どもの手を引いて先ほど降りて行ったお母さんの今までとこれから。
前の席で船を漕ぐ女子高生の夢の中。

この世には無限の物語があり、そこには誰かの共感を呼ぶ物語が、思いもしない衝撃的な物語が、胸を打つ感動の物語がある。

しかしそれは実体を伴わない。
脳という都合1キロを超える情報処理ユニットと記憶媒体を持ちながら、人間は記憶と感情を検知する五感を持ち合わせていない。

それら記憶と感情を載せた物語に実体を与える媒体こそが、文字だ。
文字を書くということは、それらの物語が現実に発露し、他の人間に検知可能な実体を与える。
これは凄まじい営みで、いま、僕がここに居たということそのものすら内包した実体として、文字が残される。

人は文字を書く。
そこに物語が残り、人が消えた先も、記憶と感情の乗り物として世界を巡る。

世界は物語に満ちている。
その多くは失われても、それでもなお人一人の人生では受け取れきれないほどの文字がこの世に生まれていく。

今日は文字を書いている。
素晴らしい日だ。

触媒としての文字が持つ「力」

文字の持つ力は記憶と感情の保存媒体に留まらない。
五感に依存せずに残される文字には、記憶と感情をよりパワフルに、センシティブに描き出す触媒としての力がある。

今日という日が僕にとっていかに平凡であっても、その平凡さの中にある多くの喜びと少しの悲しみとを色付けるように記録することができる。
誰かの共感を誘うかもしれないし、誰かに喜びを届けるかもしれない。

物語を文字に起こした人間には、創造主としての権利があるのだ。
ありもしない世界を描きだしたっていいし、今日という日をそのまま綴ってもいい。
それは文字を書いた人が持つ当然の権利であり、その文字の中でのみ神様になれる特権でもある。

自分の人生を赤裸々に語れば、誰かに自分を伝えることができるかもしれない。
色を加えて、世界を描きだせば誰かの涙を誘うような小説になるかもしれない。
日々の想いを綴れば、綴るうちに自分の中にさえ新しい何かが見つかるかもしれない。

文字を書くという行為は祈りに近い。
救われようとして書くのではなく、ただ、書くことにまず意味がある。
そこに金銭の授受が伴う価値を見出されれば、作家だろう。
でもそれは所詮、ただ金銭を得るに値する文字だったというだけで、多くの人が残す文字との差は存在しない。

まず、書く。
文字は残る。

その祈りが世界人類全員を救うことはない。
ただ、あなたの、自分の物語がこの世に残る。
その事実は消えず、世界は貴方の実体を載せ続ける。

文字を書く。素晴らしい日だ。
今日という日がこの世界に残った。

そして、もしもこれが誰かに少しでも読んでもらえたら。
それが少しでも誰かの物語に繋がったら、この上なくうれしいことだ。

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