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原価率100%という贅沢
耶馬溪でやっていることを説明すると「自給自足的な暮らしだね」と言われることもある。
でも、自給自足という言葉は、ちょっと古いというか、なんだか田舎っぽいというか。また経済社会へのアンチテーゼの文脈の中で使われることが多い気がして、個人的にはあまり好きな言葉ではない。
けれど、
移住して5年目、林業を覚えたり、米作りをやってみたり、電気工事ができるようになったり、商品開発をしてみたり。やってることだけ並べてみると、確かに、自給自足とも言えるかもしれない。
自分で色々作って、やってみたりして、だいぶできることも増えてきた。
百姓のうちの二十姓くらいはできるようになったんじゃないだろうか。
その中で最近よく思うことがある。
自給自足って、贅沢な暮らしだ。
昨日食べたカルボナーラはまた一段とうまくなった。
豚肉ブロックを使って、パンチェッタをつくる。
原価率は100%。
そりゃうまいに決まってるよね。
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市販で売られているものは、
売られている時点で誰かが介在している商品だから、いくらいい素材を使っても、原価率100%にはできない。
商品代金の内「うまい」につながっているのは多くて50%ぐらいだろうか
物流コストや製造コスト、法律的に守らなくてはいけないルール、
そんなものが一切入っていない自分でつくった食材を、「商品」になった食材たちはどうやっても超えることができない。
なんでも調べれば自分でやってしまえる情報が簡単に手に入る。
一昔前の「職人」と呼べるような人たちもごく一部になってしまった。
ほんとに美味しい塩を作る人や、料理人や、酪農家など、
顔が思い浮かぶ人はありがたいことに何人もいるけれど、
そんな人たちがつくる「ホンモノ」は
一般的な社会で出回っているものの、1%にも満たないのじゃなかろうか。
多くの場合、経済合理性の中で、安くそこそこのモノに負けて、ホンモノたちは埋もれて、消えていってしまった。
そういう社会構造になってしまっている。
自分で作れるはずがない、
そんな時間もゆとりもない、
誰もが知ってる大手だから美味しい、
美味しいもの食べたければ、外食にいく方がいい、
と思わされている。
そういう思考回路になってしまっている気がする。
2%の塩をまぶして、冷蔵庫で1週間ほったらかしておくだけなのに。
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原価に100%かけられることって贅沢だ。
必ずしも「お金をかけて暮らすこと」が「贅沢に暮らすこと」ではないかもしれない。
「なんでも自分でやってみること」
人生フルーツの津端さんの言葉がよぎる。
次は何をつくろうかな。