アジャシャンティの「あなたの世界の終わり」を読みながら
昨日ふとKindleアプリを開いていたら、上の本が気になってダウンロード(Kindle Unlimtedで読めたし)。
アジャシャンティ。
名前は知っていたけど今まで読んだことなかった(アジャシャンティって男性だったんだ。なんとなく女性だと思ってた)。
上の経験から、自分の今のテーマは「肉体を超えた世界」と「肉体世界」をどのように行き来し、そしてこの肉体が続く世界をどのように生きていくか。
そんなことを思ってたら、またふとすぐに上記のような本に出会えてしまうところが、なんだか神秘を感じる。
なぜならこの本、神秘体験で「目覚め」を起こした後のプロセスについて書かれているから。
今の自分が最も知っておくべきことが、書かれている。
この本を参考に、自分の気づきや学びを整理していきたいと思う(数回に渡るかも)。
「目覚め」は別に気持ちいい絶対的幸福ではない
確かに私は、魂の帰郷体験でとてつもない安心感を感じたけど、逆にその後の数日は酔う感覚もあった。
その「酔い」とは、先日体験した意識状態と、この肉体に基づいて生きる肉体世界の間を行き来しないといけないことの酔いなのかもしれない。
そしてむしろ、肉体の向こうの世界など、体験したことがない方がいいとも言える。
なぜなら向こうの世界を体験すると、この肉体世界とのギャップにむしろ苦しむことになるのだから。
「悟り」や「目覚め」、「覚醒」といったことは、色々な本や動画で語られるけど、今私たちが想像していることはまず起こらない。
なぜなら、そうした現象を待ち望み、想像しているのは誰かと言うと、結局は「私」という肉体的エゴでしかないから。
「覚醒」などで語られる体験とはつまり、「私」という肉体的エゴが抜け落ちることなのだから、どれだけ「私」が妄想しようが、渇望しようが、その「私」が満足するような体験は絶対に起こらない。
なぜならその体験が起こる時、それを体験する「私」などいないのだから(「私」の欠如が、そうした体験それ自体なのだから)。
こうした経験のあと、結局はまた「私」が存在していることを思い知ることになる。
魂の帰郷体験をしようが、どうしようもなく肉体的生は続いていくし、そして肉体に紐づく思考や感情も湧き起こってくる。
これに、ひどく落胆する羽目になるのだ。
「あんな素敵な体験があったのに、自分はまたこうして感情や思考、そして肉体世界にまみれている・・・」といったふうに。
こうしたギャップが苦しみの元であり、混乱の元にもなり得る。
一瞥体験の後の方向感覚の欠如、ギャップによる苦しみは自然なことだと理解する
先生は「ただ魂が早熟なのだと理解すればいい」「理解すれば怖くない」と言った。
そして、今まで述べてきた神秘体験の後に起こるそうしたギャップや混乱、酔いについても同じように、自然に起こり得ることだとただ理解すればいいのだと思う。
ここで、「どうしてまたこんな状態に・・・」とか「あの時の体験に戻れないのはどうして・・・」とか始まってしまうと、それは結局「私」がまた何か新しい信念体系をこしらえ、それを拠り所にしてしまうことを意味する。
そしてその体系に当てはまらない自分自身を責めることにつながる。
これは結局、新しい鎧をまた作り出すだけだ。
そしてこの一瞥体験の後の鎧としてよくあるパターンが、何か感情が動くことが起きた時、「私はもうあの体験をしたんだから完璧なんだ」とか「どれだけ感情が動こうがこの現象世界は幻なんだから」と、残り続ける肉体的エゴを超越的態度で達観するフリをすること。
そうこれは、フリだ。私の周りを見ているとよくここに落ちる人を発見するし、私もよく落ちる。
ただ、どんなに神秘体験が起こっても、完全にエゴがいなくなるまでの深い体験をするのはほとんどあり得ない稀なことだと理解する。
そして、エゴは時間をかけて徐々に弱まっていくもの(逆に言うと肉体が続く限りずっと残り続ける)と理解すること。
これが肝要なのだと思う。
ここでまた、「私」は叫ぶ。
「そうした経験をすれば一切の苦しみから解放されるはず!」「『私』はそのために自己探究をしているのに!」と。
でもこうした発想も、結局は「私」が作り上げた妄想世界でしかない。
そういった意味で、先述の通り、どんな神秘体験が起ころうと「私」が満足することは決してない。
なぜならそうした体験の本質とは、「私」が存在しないことそれ自体への気づきなのだから。
「私」が存在しないなら、もちろん喜ぶ「私」も存在しない(もし「私」が喜ぶとしたらそれはその体験を過去を物語として作り上げ、その妄想の中で喜んでいるだけなのだと思う)。
方向感覚の欠如も自然状態。全てはあるがまま
酔う感覚は、方向感覚の欠如も関係しているように思う。
「私」は何かしら方向づけを行う。
生きる目的、目標、未来、などなど。
企業組織としてはそれを近年「パーパス」と呼んだりする。
またそれは「幸せ」や「愛」といった言葉で表象されることもあるかもしれない。
ただ、そうした方向付け全てが、単なる「私」というエゴの物語だとわかってしまうと、もうそれでは走れなくなる。方向がなくなるからだ。
ただ、この方向感覚を失うことそれ自体も、別に悪いことでもなんでもなく、自然の、あるがままの状態なのだと理解すること。それでいちいち自分を責めないこと。
もちろん過去の条件付けが強いため、「なぜ頑張れないんだ」とか「なんで走れないんだ」と責めてしまうかもしれない(私はこれ、しょっちゅうやってしまう)。
でも、あらゆる方向性を失ってしまうことは、むしろ「私」の弱まりであって、自然なこと。
もちろん、それによって起こる苦しみもある。気づく必要もなかったのに、気づいてしまったことで、頑張れなくなって、走れなくなって、今まで得てきた成功や安定を失う羽目になるかもしれない。それに伴う恐怖もあるかもしれない。
けどそれは、結局は恩寵なのである。
確かカール・ヒルティの幸福論で、そうした痛みや苦しみが起こることはむしろ神の恩寵なのであって、そうしたことが起こらないことは逆に神に見放されているとみなすべき、といった記述があったように思う(記憶曖昧だけど)。
本来の自己(魂)からの恩寵。
もちろんエゴである「私」は全力でそれに抵抗する。なぜなら魂の目覚めとは、ある意味「私」の死だからである。
だからルーミーは「死ぬ前に死ね」と言ったわけだ。
「私」はとにかく死を恐れる。悟りや一瞥体験、そうした経験を「私」が喜ぶはずがない。なぜならそれは、「私」の死、それ自体なのだから。
先述の通り、「私」が喜ぶのは常に、その体験の後、記憶の中で過去という物語をこしらえてからの話だ。
「私」は常に過去と未来にしか存在できない。そうした体験が起こる現瞬間には「私」は存在し得ないのだ(「私」の欠如=現瞬間=一瞥体験、なのだから)
肉体が続く限り、自己探究は続く
要は終わりはないのである。
「終わった」というのはつまり「完全」を意味する。
「私は完全なのだからもう悩まない」
「私は完全なのだからもう大丈夫」
そんなわけない。
スピノザは、「完全」と「不完全」を分けるのは単なる人間の想念だと言った。
結局は、「私」を「完全」とみなしているのもまた「私」という想念なのである。
完全も不完全もない。そうした意味で、「不完全な完全さ」が世界そのものだとも言える。
しかし、想念は「完全」と「不完全」という二元論をこしらえ、その中に自分自身を縛り付ける。
これが、罠だ。エゴは驚くほど巧妙に、私たちを騙し、絡め取ってくる。
だからこそ明晰な自己観察が必要なわけである。いかなる「私」の動きも見逃さないように努める断固とした徹見。
そして、もし「私」が暴れても、責めないこと。「『私』が暴れた」と責めるのもまた「私」なのである。
つまりはもう、多種多様な「私」の舞踏会。
そしてそこに「他者」という投影すら混ざり込んでごった返して、にっちもさっちもいかなくなるのが、この肉体世界だ。
「どんな自分も責めないこと」
そうした意味で、これは本当に、大切だと思う。さもないと責めることによって、「私」は結局、力を取り戻すのだから。
そして、自分に正直になること。
悩みがある、ということに嘘をつかない。
迷いがある、ということに嘘をつかない。
わからない、ということに嘘をつかない。
怖い、ということに嘘をつかない。
自分に、嘘をつかない。
そこに嘘をつきたくなるのであれば、それはまだ見たくないものがある証拠。
そうした見たくないものを「私はもう完璧だから」と見ないようにする。それはまた「私」の巧妙な罠なのである。
あらゆる自分を責めずに、あらゆる自分を素直に認める。
直視し、感情と思考の両方で自己探究を続ける。
これは肉体が続く限り、一生続く。
もしかしたら、そうした肉体的エゴすら完全に失われる境地がくるのかもしれない。
ただ、そんな境地がもしあったとしても、今の状態で妄想している限りそれはどこまでいっても「私」の妄想でしかない。
であるならば、そんな境地は妄想だと排して、肉体が続く限り肉体的エゴは一生続く、と思っていた方が安全なのだと思う。
「悟り」なんてものはない。なぜならその「悟り」とは、結局「私」が妄想する「悟り」であって、悟りそれ自体が起きるとき、それを体験する「私」などいないのだから(この「悟り」を、「覚醒」「目覚め」「愛」といった言葉に入れ替えても、同じことが言える)。
そういう意味で、「悟り」も「覚醒」も「目覚め」も「愛」も、そんなものないのである。そういう意味では、全てが悟りであり覚醒であり目覚めであり愛なのだと思う。「私」も含めて。