萩尾望都『一度きりの大泉の話』を読んで思い出したこと
萩尾望都『一度きりの大泉の話』を寝る前に一気に読んでしまった。読んでいる間に思い出したのは、萩尾望都の漫画に触れた時のこと。
私には姉がいて、姉の学習机の右側にはコミックがちょうど入るような、作りつけの本棚があった。そこにあった漫画は、萩尾望都『ポーの一族』『トーマの心臓』『11人いる!』『百億の昼と千億の夜』、竹宮恵子『地球へ…』『風と木の詩』、山岸凉子『アラベスク』、手塚治虫『ブラック・ジャック』、山本鈴美香『エースをねらえ!』など。傾向がありそうでないというか、手塚治虫なども入っているのが面白い。手塚治虫は大判の『火の鳥』も別の棚にあった。
その本棚から私が好んで読んだのは、萩尾望都『11人いる!』『百億の昼と千億の夜』、山岸凉子『アラベスク』、手塚治虫『ブラック・ジャック』、山本鈴美香『エースをねらえ!』あたり。竹宮恵子『風と木の詩』は、中学生の頃借りようと思ったら「まだ早いんじゃない?」といわれ、高校の頃また聞いてみたら「もう読まなくていいんじゃない?」といわれたのを覚えている(笑)
というわけで、竹宮恵子には距離があり、萩尾望都の方を近く感じていた。
そんなこともあって、以前読んだ『少年の名はジルベール』より、『一度きりの大泉の話』に共感して読んだ。
もちろん私なんかよりも、思い入れとともに、これらの本を、もっともっともっと深く読んでいる人がたくさんいるだろう。それもすごいけれど、逆に、姉の漫画をたまたま読んでいた私のような人も惹きつけるような、この時代の人々の交流はやはりすごいと思う。と思いながら、その時代の、姉や私の友人関係を思い出したりもした。
それにしても、『一度きりの大泉の話』は不思議な本である。後書きなどに、日付と署名が記されることはよくあるが、それが3回も登場している。念には念をという感じで、3回も終わりが繰り返されている感じ。