梶井基次郎『檸檬』における「檸檬」とは一体何か

 『檸檬』は梶井基次郎の代表作である。梗概だけ述べてしまえば「えたいの知れない不吉な塊」に心を圧えつけられた主人公「私」が、京都の町内を逍遥し、果物店で入手した檸檬を丸善の画本の上に据え付け、そのまま去ってしまう。ただこれだけである。話の短さ、呆気なさに対して、作中に登場する檸檬の印象は鮮烈で、他の文学作品には見られない独自の魅力を形成している。
 本稿は、梶井基次郎が檸檬という果実を何の象徴、或いは寓意として作中に登場させたのかを考察し、『檸檬』の発する全く独特の文学的価値を探究するものである。

ⅰ 不吉な塊と丸善
 先に述べた通り、『檸檬』は主人公の「私」が「えたいの知れない不吉な塊」に心を圧えつけられている状態から始まる。それは酒を毎日飲んでいるとやってくる「宿酔」に相当する時期と表現されている。それは「結果した肺尖カタル」や「神経衰弱」、「背を焼くような借金」がいけないのではないという。つまり、この「不吉な塊」を形成する要因は、肉体的な疾患でもなければ精神的な病でもない。自らを取り巻く環境要因でもない。では一体何か。
 「私」は次いで「美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった」と言っている事から、「不吉な塊」の要因は芸術に対する気分の飽和と推察できる。殊に、梶井は小説という形式上で音楽と詩とを批判の対象に挙げているのだから、その矛先は自身の作品『檸檬』にも向けられていると考えるべきだろう。
 元来「私」にとって芸術は「喜ばせ」るものである。しかし、その過剰摂取が芸術に対する気分の飽和を招いた。比喩として「酒」が掲げられたのも此処で理解出来る。「私」にとって芸術は、既に喜ばせるものでは無くなっており、寧ろ、蓄積された芸術はアルコールの多量摂取と同じく、体内で毒物と化しているのである。
 そこで「私」は自らを治療するように、退廃的なイメジのものへと思考及び視線を移動させる。梶井は「安静」を第一に述べ、「私」が自らを治療するパートへの移行していると読者に対し明瞭に宣言する。次々と現れるイメジ、例えば「花火」、「おはじき」、「南京玉」は読者に対して、安価で、どこか卑俗な連想を抱かせる。
 途端に「私」は「丸善」に行っていた時期の回想をはじめる。その「丸善」には何があったのか。以下に引用したようなものである。

  赤や黄のオードコロンやオードキニン洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。

 一読して明らかな通り、花火やおはじき、南京玉とは対照的な高価で瀟酒なイメジの品物である。それは当然、音楽や詩句を愛好した自己の投影図であり、現在の「私」にとっての「不吉な塊」である。梶井は此処で「私」の心情を、「私」に語らせながらも、その過程において、抽象的であった「不吉な塊」の像に具体性を帯びさることに成功している。つまり、このシーンでは「私」にとって「丸善」は過去の蓄積に倦怠感を抱く今の「私」そのものとして顕現するのである。
 但し、注意すべきなのは「私」はその両端のイメジに「美」を見出している点である。高尚を嗜好していた「私」がそれに倦むことで発見する凡俗の「美」。この順序と美の価値の等質さとを踏まえなければ、檸檬の登場に備えられない。

ⅱ 檸檬を発見する
 京都内の路地を暫し逍遥した「私」は果物店で檸檬を見つけ、購入する。本作の方向を決定づける重要な場面である。ところが、初読で此処が転轍点であると気づくには、文章の進行が自然なので一寸気づきにくい。檸檬を讃美する箇所は珍しいように思うが、前述の風景描写の精緻さもきめ細かなため、然程違和感は感じられない。だが、「私」は檸檬の入手と同時にタウマゼインとも呼ぶべき状態を引き起こす。
 檸檬は高尚と低俗の中間にある「美」の象徴である。それぞれの両端へ垂れ落ち兼ねない危うい場所に、偶然にも固形で現れた「美」、言うなれば「揺れ動く美」である。
 これは高尚な芸術世界にのみ耽溺していては発見し得なかった美の形態であり、俗物の世界に浸っていても感じ得なかった美である。過去に比類無き美(中庸美術とでも言おうか)の創造が、まさにこの小説内で行われようとしている。この興奮と緊張感の生む高揚感こそが「私は幸福だったのだ」と「私」に述べさる大きな要因であったのではないか。

ⅲなぜ爆弾か
 檸檬を手にした「私」は丸善へ再来する。読者には何の目的も告げられないまま、「私」は丸善へと乗り込んでゆく。だが、入店と共に「私の心を充していた幸福な感情はだんだん逃げていっ」てしまう。
 これは芸術の長い歴史と今、芸術家たらんとする「私」の闘争を告げる場面と読むべきだろう。歴史の重圧は画集の重たさとして描かれる。芸術における歴史は、換言すれば権威である。時間という風雪に耐え、長く伝えられてこそ、芸術の価値は明らかになる。また、歴史の中で善い「とされた」ものが名を残す事ができる。
 この事実は現行の芸術を志す人間に恐怖や不安を与えるだろう。なぜなら、過去の芸術を模倣していては自身の創造性を発揮し得ぬがゆえに認められず、奇抜な挑戦を試みてもそこに芸術的価値があったかどうかなど、後世の評価によってしか分からないのだから。
 「私」は檸檬を得た事で自身が芸術家として活動する興奮を覚えた。そして、歴史と伝統を基盤として屹立する「不吉な塊」の象徴、或いは過去の芸術の権化、「丸善」と対峙する。画集に圧倒される様は、芸術家としての「私」が歴史の重圧に耐える強度を持つか否か問う試練のように描かれ、熾烈さの余り、「私」は一時、檸檬を持ち込んだ事すら忘れてしまっている。
 だが、「私」は懐中の檸檬を「憶い出」す。そして画集の積み上げらた最上段に、檸檬を据え置くのである。これは「私」が芸術の蓄積の歴史に打ち克ち、自身が芸術家として歩き始めた様子を表す、明快な比喩表現である。
 同時に、この行為は、つい先程迄比類無き美(檸檬)を有していた「私」がそれを明け渡す事により、歴史(丸善)の一部と同化したとも解せる。個であったはずの芸術家は時間の中に回収され、他の芸術家たちと同列に扱われ、次世代の芸術家志望の人々を圧迫する側に回らされるのである。
 だから「私」は「第二のアイディア」即ち、檸檬の置き去り=丸善の爆破を敢行する。「私」が「第二のアイディア」を閃いて以降、「檸檬」という言葉が消失する。檸檬と思われるものは「それ」であり、「それ」は「金色に輝く恐ろしい爆弾」である。権威づける構造そのものの破壊。権威は巨大で歴史と伝統に裏打ちされている(丸善という建物が巨大であるように)のに対し、檸檬は漫歩の寄り道に、偶然発見した矮小な俗物でしかない。
 しかし、それは丸善を「粉葉みじん」にする。一発の破壊力(価値倒錯)を考慮すれば爆弾の語は適当であり、この一発は文学史に投下されたも等しい。自己を芸術家でも何でも無く「奇怪な悪漢」と名乗る妙は此処にある。また、丸善爆破(実際には爆発しないとしても)はそれに足る蛮行であった。
 丸善の爆破を想像した「私」は京極の町へと、忽然と消える。其処には冒頭で「不吉な塊」を懇切丁寧に説明していた「私」の姿は読み取れない。

Ⅳ 多様な色彩への埋没

 最後に、本作に通底する色彩への言及と、「私」がその中へ消えて行った点について述べたい。
 取立てて列挙するまでもなく、『檸檬』は作品全体に色を指定する箇所が多数見られる。最後の場面ですら「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極」と具体的ではないながらも、色にかんする語で閉じられている。殊に「ⅰ 不吉な塊と丸善」で引用した「私」が丸善に言及する場面や、画集の城を建設する場面などは色が多い。
 これは単に読者が場面を想像し易くするための配慮ではないだろう。色彩もまた美であり、歴史の隠喩である。一見すると美は即時的に現れるように思われるが、何を美しいと思うか、という感性は、それまで見物した美の集積から逆算されたものである。その時間の長短こそ違えど、歴史も同様の手法によって美を確立させてきた。丸善の爆破は色彩の消失でもある。
 その一切を見届けるべき「私」は無責任にも色彩の世界へと去る。しかも「爆発した」と明言しない卑怯な含みを残して。それもその筈で、矢張り「私」は破壊という形式で、最終的には「美」を述べてしまった加担者であり、そのせいで寧ろ歴史という外枠の強固さを語ってしまったのだから。それは文学という舞台を借りた芸術の自殺である。悪漢たる「私」は、焦土と化した文学の土壌を眼前とする我々読者に「貴様の文学を創造せよ」と突き放してしまうのである。

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