平凡パンチ

地下鉄にリクルートスーツの若者が乗っている。どうやら就職活動の真っ只中らしい。三年ほど前、自分は丁度彼らと同じ就職活動に迫られた学生だった。

大学院への進学も考えたが、研究者や教員になる気は無く、生涯学問に携わるだけの実力は無さそうだったので、それは止めにした。就職しようかと思い立ったのは大学4年の夏だった。

「公務員にでもなろうかな~」
「森林くん、公務員試験はもう軒並了ったよ」
「ひえ~」

後から知った話だが、大抵の就活生は大学の3年ぐらいから準備を始めるらしい。夏休みを利用してインターンや説明会なんかに参加し、会社の事を勉強するという。当然、公務員試験の対策講座も3年から開講する。私はそんな事を知らないので、夏休みを長時間の睡眠と読書だけに捧げていた。

ひたすらに、本の中へ、思想の中へ、思考の中へ……。夕暮れが近くなると近くの川辺へ散歩に出かけ、長い距離を歩いた。橋を渡って林の前を通りかかる頃、川水のやわらかな音に混じりながら、茅蜩の声が聞こえてくる。紺色をまとった東の空から薄暗い夜が伸び、太陽はアルコールランプのような淡い橙色を西の彼方に点していた。それは紛れもなく、大学3年の夏が畢る景色だった。

「大学4年の夏も去年と同じように過ごしていたら、きっと就職なんかできないんだろうなぁ」
そんな予想がなんとなく立った。周囲の友達からも就職を決めたとの報告がちらほら上がり始めていた。自分は学食のカレーを食べながら、友人の就活談話をぼんやりと聞いて、それも済んでしまうと、図書館へ行って卒業論文の執筆をした。

六月も終わりに差し掛かる頃、はじめて就職活動支援センターらしき施設(名称ははっきりと覚えていない)へ行き、就職先を調べてみる事にした。とてもでないが、一生懸命なんか働けない。人の役に立たなくていいし、お客様の笑顔なんて見なくていい。ただ、年間休日数と給与がある程度あれば良かった。数十分して、目ぼしいのが一社だけ見つかった。

エントリーシートの書き方も知らない、履歴書も書いた試しがない、適性検査はよく分からん、そんな状態の中で、選考書類だけは先ず書いた。郵便局の窓口で封筒を渡し終えた後、この就職が決まらなかったらどうなるかを考えた。自分には協調性が無いし、資格も無い、バイト経験も無い、コネもツテも無い。
「そうなると、芸人ぐらいしかないな」
本気でそう思った。駄目なら芸人養成学校にでも入って苦労するより道が無い。兎に角、何か職業に就いているイメジが全く沸かなかった。
外は憂鬱なくらい雨が降っていた。

月に一度の散髪へ出かけるたび、担当の美容師とはよく近況について話をした(いつも同じ女性が切ってくれていた)。
「森林くん就職先決まったの?」
「いや、今選考に応募したくらいです」
「何の仕事?」
「事務職。うまくいかなそうですけどねぇ」
「へぇ〜!森林くん頭良さそうだし大丈夫だよ」
すごい話だ。「頭が良い」ではなく「頭良さそう」だから「大丈夫」。根拠無き断言だが、自分はこういう乱暴な励ましをしてくれる人がなぜか好きだ。

「今の仕事決まんなかったら?他あるの?」
「さぁ……芸人なるか探偵なるかですよ」
「アハハハ!何それ〜」
探偵は偶々広告を見て良いと思った職業だった。張込みとか尾行によって決定的な証拠を摑み、依頼人へ提出する。警察よりも組織くさくないし、単純に仕事として興味深い。人混みに紛れるのはうまい方なのでそれなりになれるのではないか。一丁やってみるかという気になっていた。

時節は秋になっていた。自分の机上には、堀辰雄『風立ちぬ』があった。庭の緑葉は徐々に褪せ、黄や赤に変わった。肌寒さを感じ、さて長袖に衣替えかという頃、内定の通知が来た。家族と恋人に就職活動は終わったと連絡し、ゼミの先生にもメールを入れた。喜びとか嬉しさよりも面倒事が片付いたというだけで、さして感慨は無く、やっと卒業論文に専念できるなと思ったぐらいだった。

今や私は平凡な顔をして暮らしている。勤めをしながら、誰にも公表せぬつもりの文筆活動を続けている。が、機が熟してしまったその時には、何らかの形で発表せざるを得なくなるだろう。掃除人をしながらひとつの狂気を成就させたヘンリー・ダーガーを、私は忘れられない。平凡な暮らしにこそ暴力はよく似合うものだ。


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