菩薩

栗駒山の雪融けがすすみ、山の腹に馬の姿が浮かんで来る頃となると、田植えの時節だと聞いたことがある。水無月も近くなった五月の終わり、自分は博物館へ出かけた。博物館へ行くときは、紺地に銀ボタンのテーラードジャケットをよく着る。背広は堅ッ苦しいから真平御免だが、私には展示品とそれらを準備した方々に対する敬意を表する気分(腐っても学芸員!)があるので、博物館へ出向くときは、シャツは襟付きのものを選ぶし、多少暑くとも上着は着るようにしている。

平日の昼間だというのに、館内は大盛況だった。長蛇の列は九十九折りになりながら、受付を覆い隠す始末である。社会科見学らしい小学生の軍団、ツアーの団体客、暇を持て余している老人……ざっと平均年齢65歳ほどの黒山の人集りがフロントを埋めている。その上方へ目を向けると、小さく「一般 1600円」が見えた。最後尾から並んで約三十分は待ったろうか、額に汗してどうにかチケットを得、遂に特別展を観覧した。

シルクロードの宝物が一挙に集った今回の企画展は見事なものだった。自分はいつしか、講談社学術文庫の『玄奘三蔵』を読んだ事がある。かの『西遊記』のモデルとなった著作で、著者慧立(えりゅう)の文才が遺憾無く発揮された名著である。舞台は7世紀の中国。三蔵法師が長安を出て、遥々西方インドを目指す。ちょうど展示物の時代とも被っているから、私はすっかり興奮し、法師が見たかも知れぬ文物の数々を、目を見開いて、嘗めるように見た。

私は物をよく見ようと、とにかくガラスの周りを何周もする。時には下から覗く。仕舞いには近づき過ぎて顔をぶつける。考古学の先生が或る講義で「博物館の展示物を隔てるガラスに顔をよくぶつけている人を見たら、それは考古学者だ」と冗談に言っていたが、まさか自分がぶつけるとは思わなんだ。熱気渦巻く人混みの中を、少し抜けて「仏教伝来」コーナーへ入り、ひと息ついていたら、ゆくりなく塑造の菩薩像を目にした。

遠巻きに見て、女が安らかに眠っているような顔である。どことなくアルカイックスマイルを湛えた柔和な表情に、私は釘付けとなった。菩薩とは如来になるための修行を積んでいる段階の者を指す。仏像の性別には興味深い話があり、まず天は男女それぞれの像がある。次いで明王になると男一辺倒となり、菩薩以後、如来までは無性別となる。真理や悟りは性を超越した部分にあるという教えだろうか?私は何かの仏典を無性に読みたい気分になったが、もう少し菩薩像の顔を見ていたら、そんな「煩悩」は忽ち消え失せてしまった。

時として、物は説法よりも雄弁であり、悟りへ導くらしい。


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