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「お前って、隙あらば映画の話してくるな」

noteをはじめた。

知人に映画の話をしていた時にネットで記事でもブログでも書いてみたら?と言われたのがきっかけだ。知人にとって自分の話は「話されても困る知らねえ趣味の話」で「同好の士に向かって話した方が両者が幸せ」なのだと思う。それもそうだ。

隙あらば映画の話をしてしまう為いい加減飽きられたのかもしれない。知人と話せるならば話題なんてどうでもよかったはずなのに。自分がして楽しい話をする、という甘え方をしてしまうのだ。母親に逐一報告する子供のように。反省だ。

例えば会話の中で”過去改変によって運命を変えてしまう”ということを「映画のバタフライエフェクトのようだ」と形容するとする(実際このレベルの例えは日常的によくしてしまう)。顔を突き合わせてコミュニケーションしている時、聞いている側はその例えは知っているか、知らないか、そのどちらでもないかの3パターンに限られる。

相手が知っている場合、ちょっとした「おっ?」という空気が形成されるだろう。相手を身近に感じたりするかもしれない。でもそれだけだ。しかし知らない、もしくはそのどちらでもない(知ってはいるがうる覚えだ、知ったかぶりをしている等)場合、その場は少し気まずくなるかもしれないし説明を要する必要が出てくるかもしれない。

「バタフライエフェクトっていう映画があって…その設定がこうで…今の話に似てるな…って思って」

なんて会話のボリュームをいたずらに増やす、カサ増しのもやしの様なトークが入ってしまう。もやしは腹を満たしてくれる手伝いをするが、この説明はなんの話してたんだっけ?を誘発させるノイズでしかない。へー映画詳しいんだね、なんて言われても虚しい。こんな話してしまってごめんなさい、だ。

しかし個人的にインターネットにそれをするのは面と向かってそれをするよりも罪が軽い気がしている。

なんなら「バタフライエフェクト」じゃなくて「ナチュラルボーンキラーズ」の例えをしても許されるだろう。インターネットは猶予で溢れている。

乱暴なシメだがつまりそういうことなのだ。わかる人間に話せ、というというよりはスルーしやすい環境で話せ、なのだ。

随分当たり前なことを書いてしまった気がする。当たり前なことを文章にするのって勇気がいるんだな。

ということで、これからも発散するようにのんびりnoteを書こうと思う。自分がして楽しい話、誰かにとっても楽しいと嬉しい。

また甘えが出た。

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