今年の夏は…
小学生の頃の夏休みは、
宿題をはじめる前に、NHKの朝ドラを見ることが日課であった。
そして、毎年8月6日は、8時15分から始まるドラマが繰り下げられていた。そして、テレビには、広島で行われている平和記念式典と、一分間の黙とう。それが、毎年恒例であった。
一家に一台しかないテレビは、居間にあったため、その時期に放映される
戦争関係のドキュメンタリーを見せられていた。
幼いころにのこっている場面は、東京大空襲のドキュメンタリーで、顔だけを隅田川につけていたのか、顔の部分だけはかろうじて残り、あとは真っ黒になっていた少年だか青年の遺体である。
目を両手で覆い、見ないようにしていたら、姉は私を非難した。
また、姉が高校生のときに、文化祭で原爆関係のパネル展を有志で開いたときである。
私は、高校の文化祭を楽しむために行ったのだが、姉はぜひ見るようにと会場である教室に私を連れて行くと、別の用事があるからと、どこかへ行ってしまった。残された私は、中に入ろうとしたが、全身やけどを覆っていた女学生の写真を見たとたんにひるんでしまい、その場を逃げ出した。
あとから、姉はそのことを友人から聞いて、私のことを恥ずかしいといって非難した。
その後、写真等は見ることを避けていたものの、小説やノンフィクションなどを読んではいたが、写真はどうしても直視することができないでいた。
今年、つきあいで、被爆体験伝承者による講話と、原爆投下直後、午前11時ごろに撮影された御幸橋の2枚の写真を、その場にいた方の証言をもとにCGで再現されているドキュメンタリーを見なければならなくなり、大変憂鬱であった。
昨年来、オンライン上で知り合いになった広島出身の方からお誘いがあった日がたまたま、ドキュメンタリーを見る日であったために、理由と述べて参加できないことを伝えた。
彼女から来た返事は、「広島で起きたことに関心を寄せていただいてありがとう」であった。
私の中で、これまでの思い込みが溶け始めた。
被爆体験伝承者による講話は、原爆投下当時、広島二中の生徒で会った方の体験談である。
前日の5日は、建物疎開の作業で旧中島地区での作業であった。その日は何事もなく穏やかな一日であったという。翌6日は東練兵場での作業中に被爆。全身やけどを負いながらも、自宅に帰り父親の軍隊経験からの知恵による治療のおかげで、肘以外のところはケロイドはのこらなかった。
だが、6日に建物疎開の作業に当たっていた1年生は、爆心地から1キロ圏内での被ばくし、全員亡くなったということである。
1日違いで自分たちが犠牲となっていたかもしれない。生き残ったことへの負い目と、二度と原爆が使用されないようにとの願いから広島で被爆体験を語っている。
その方の話と思いを受けついだ伝承者の語りは、書籍や映像より勝る。
講話の後のドキュメンタリーでは、御幸橋の写真に写っているなかで消息が判明した方の証言をもとにCGを再現。
ほとんどが、少年少女であったことを知り、講話で語られた広島二中の一年生のことを思い出していた。
広島出身の方からのちょっとした言葉から、
これまでとは違う感覚で8月を迎えることができた。
人との出会いは、大事であるとつくづく思うのであった。