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1945年の記憶

1945年3月10日未明、父が住んでいた家から東方面の空は真っ赤に染まった。翌日、その惨状を知った祖父は身重な祖母と幼いこどもたちを祖母の姉の嫁ぎ先に疎開させた。父の記憶によると終業式前のことだった。

疎開先まで家財道具は持てるだけ持っての移動である。車もない時代なので、家族6人全員がそれぞれ荷物を分担して列車で運んだ。小学生だった父は一升瓶がはいった醤油を任されていた。はじめはしっかりと両手に抱えていたが、しだいに眠くなり、寝落ちしてしまったらしい。駅に到着して起こされて、両手に抱えていたはずの醤油がないことに気づいた。しまった!と思ったその時、祖父の雷が落ちた。。

父にとって、疎開先での思い出は良いものではない。
身を寄せた家では肩身の狭い思いをし、また、学校では、同じ家に住むいとこにいじめられていた。家にいるときは、大人がいるから仲の良いフリをするのだが学校に行くとガキ大将たちと一緒になって父をいじめる。とてもつらかったが、祖母には言えないし、弟や妹にも言えやしない。ぐっと耐えていた。

祖父は月に数回、父たちに会いに来ていた。駅から疎開先まで4~5キロの坂道を上る。祖父は、好きな酒の配給を我慢して子供たちに又は疎開先の家に何かお土産らしきものに変えていた。妻やわが子への思いを詰めた重いリュックを背負って歩いてきたという。
祖父が帰る時、父は祖父と一緒に帰りたくて村はずれまで祖父を追いかけた。そして、祖父の姿が見えなくなるまで見送ったという。

ある日、偶然であるが東京の学校で一緒だった山本君という子が同じ学校に転入してきた。東京の学校にいるときに一度だけ銭湯で一緒になったことは覚えているが、それほど親しかったというわけではなかった。なぜだか、その子とその子の仲間が学校にいる間は父を守ってくれた。ただ、学校にいる間だけなので、父は自分の身を守るため、終了のチャイムが鳴ると同時に一目散に駆け出して家に帰るというのが父の日課となった。
そのおかげで父の足腰は鍛えられ、東京に戻ってからは学校の体育祭ではリレーの選手になったという。

3月以降も、東京にはたびたび空襲があり、疎開前に住んでいた家は5月の空襲で焼失した。祖父と父の兄である叔父は、明治神宮内にある森に逃げ、大木にしがみついて生き延びたという。

余談になるが、叔父の命日が近いせいなのか、そのときのエピソードをおぼろげながら思い出した。確か叔父はこう語っていた。
「俺が皆が逃げていく方向に行こうとしたら、親父があっちへ行ってはダメだ。森に逃げるんだと言って、俺たちは明治神宮に逃げた。まわりには人が数人いるだけだった。親父は、俺に木にしがみつけと言って、自分も木にしがみついた。爆弾が落ちている振動や轟音が聞こえてきて怖くて木から手を放そうとしたら親父が手を離すな!と怒鳴る。そんなことを何回か繰り返したことを覚えている。翌日、森から出ると辺り一面は焼け野原だった。あとから聞いた話によると、皆が逃げたほうは全滅だったらしい。」
多感な年頃であった叔父は、住み慣れた町の変わり果てた姿をどんな気持ちで見たのだろうか?

8月15日に戦争が終わってから数週間後、祖父は父たちを迎えにきた。
父たちは9月には東京に戻り、そこで戦後を生きるのである。

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