だけど願いはかなわない 最終話「純(後編)」
タクシーを飛ばしながら、初めて鬼塚さんの家を訪れた時の事を思い出していた。
その前日、私がメモしていた住所を見ながらあおいちゃんが言った。
「この住所、ウチの管轄だな。…まさか自宅に呼ばれたのか?怪しいな。よく知りもしない相手なんだし、普通、人の目がある場所を選ぶもんだろう。」
「また、あおいちゃんの心配性が始まった。」
苦笑する私をよそに、あおいちゃんは真剣な顔を崩さず続ける。
「何かあれば直ぐに『119』しろよ。」
「110(警察)じゃ無くて?」
「119(消防・救急)だ。俺がすぐに行くから、適当に火事だって言っておけ。」
「…確か、虚偽の通報をするのって犯罪だったと思うけど。」
「ああ、消防法で決められてる。『三十万円以下の罰金または拘留』だな。」
あおいちゃんの言葉に、しばし小首をかしげて考え込んだ。
「うん…?だからそれ…逮捕されるんじゃないの?」
不思議そうにそう言う私に、あおいちゃんが真顔で返す。
「逮捕されるな。」
「もう!あおいちゃんの冗談って分かりにくいんだから、やめてよ!」
あおいちゃんは笑いながら謝って、それからもう一度真剣な顔に戻って言った。
「何にしても、もしそこで働く事になってもウチの管轄なら少しは安心だ。一般的にはあまり知られてないが、警察だけじゃなくて俺達もたまに巡回してるんだぜ。そっち方面の巡回を増やすようにしないとな。」
「職権乱用じゃない。」
あまりにあおいちゃんが大げさな心配をするので、翌日、もしかしたら本当に危ない人なのだろうかと、ドキドキしながらインターフォンを押した事を覚えている。
そして、その和風の一軒家から出てきたのは、締め切り明けで目を血走らせたボサボサ頭の鬼塚さんで、私は思わず本気で119をコールしたい衝動にかられた。
・・・・・
「お帰りなさい。」
女はそう言うと、極限まで燃え尽きたマッチを床に捨て、そのまま当然の様に新しいマッチに点火した。
小さな炎に照らされた女の笑顔に圧倒され、俺は思わず「ただいま…」と返事をし、ゆっくりと後ずさった。その背中が、壁では無い何か柔らかい物に当たる。
振り向くとそれはいつの間に背後に居たのか、あの春日の野郎で、誰かをかばうように横一直線に伸ばされた腕の奥、女を見つめるジュンの姿があった。
女も二人に気付いたらしく、驚きからか火の点いたままのマッチを落とし、それはやたらとヒラヒラしたレースをあしらった女の胸元に引火した。マッチの小さな炎が、瞬く間に燃え広がっていく。
しかし女は自分が燃えている事すらまるで意に介さない様子で、ジュンを真っ直ぐ睨み付け、叫んだ。
「やっぱり!やっぱりあんたが黒幕なのね!」
俺は腰が半分抜けたようになり春日に体重を預けていたが、ヤツは半身振り返って両腕でジュンをかばう体勢を取り、俺は無残に尻餅を着く。
しかしジュンはそんな春日を振り払うようにして、自ら一歩前に出た。そして床に座り込んでいる俺に、俺が仕事用に貸し与えている極小ガラパゴス携帯を投げ付け、「消防!119です!」と叫ぶと同時、勢いよくコートを脱いだ。
ジュンのコートがふわりと宙を舞い、火だるまの胸元ごと女の上半身を包む。
コートの中から女のうめき声が聞こえてくる。自分に覆い被さるコートを剥がそうと必死に抵抗しているので、時折、小さな燃えカスと一緒に火の粉が畳に落ち、畳の上で踊っては消える。
ジュンは、そんな女に何度も何度もコートを叩き付けている。
俺は震える指でどうにかこうにか1・1・9と発信した。
春日がジュンに続いて自分のコートを脱ぎ、同じく炎と空気を遮断しようと格闘する。幸い、油などの危険物を伴った火災では無い。上手くいけばこれで消えるだろう。
「僕がやるから避難して!」
春日がジュンに叫び、ジュンは身を翻してその言葉に従った…かと思ったが、ジュンの足は玄関では無く、書斎の奥の、資料の詰まった収納棚に向かった。
電話口の119の言葉に応じながらそれを眺めていると、ジュンは一切の迷い無くその棚から分厚い封筒を取り出し、心底大事そうに抱え、「消防の誘導をやります!」と言いながら改めて玄関に走った。
・・・・・
消防、救急、警察と、三拍子揃った騒動に、一斉に集まってきた近所の野次馬の波は、やがて「どうやらただのボヤらしい」と勝手な解釈をし、何だか少しがっかりした様子で次第に引いていった。
救急車で運ばれていった真央さんを除外し、私達三人はそのまま鬼塚さんの自宅で簡単な事情聴取を受けた。特に家主である鬼塚さんは、消防隊員からもあれやこれやと矢継ぎ早に質問を受けて疲労困憊といった様子だ。
「…それでは、お手数おかけしますが、続きは署で。お一人ずつ聞かせていただきます。車で来られますか?良ければパトカーでお連れしますが。」
白髪交じりの刑事さんが私達をパトカーに誘導し始めた時、防火服に身を包んだあおいちゃんが、白いヘルメットを外しながらこちらに近付いてきた。
刑事さんに綺麗な一礼をし、消防士としての身分と氏名を告げてから「彼女の身内の者です」と説明して私を向き直る。
「ジュン、大丈夫か?」
「大丈夫。それよりあおいちゃん、仕事中でしょう。」
「一段落したし、彼女の側に居てやれって言ってもらえた。少し時間はかかるけど、俺も後から警察署に行くよ。」
警察署も夜間で人手が足りなかったのか、私達三人の事情聴取はそれぞれ別室で同時にではなく、順番に一人ずつ呼ばれる形で行われた。
ハルキ君が取調室に入っている間、月明かりが差し込む廊下の長椅子で、鬼塚さんと並んで待った。疲れていたのでお互い無言だったが、ふいに、鬼塚さんが私の抱えていた分厚い封筒を指さして言った。
「なあ、それ、何なんだ?あの状況で真っ先に持ち出すなんて、よっぽど燃えて欲しくない大事なものなんだろ?それに、お前、あんなに火を怖がってたのに大丈夫だったのか?」
言われて気が付いた。やっぱり、私は火を怖れてはいないのだ。けれどその説明をするためには長い時間と気力が必要だ。
私は、封筒をそっと無言で差した。鬼塚さんはそれを両手で受け取り、そしてその瞬間、やっと思い出したらしい。
「お前…これ…。」
中身は、以前資料整理をしていた時に見付けた、鬼塚さんの未発表の小説だ。
「鬼塚さんがなぜまとまったお金が必要かは分かりませんが、『良い機会なので仕事を整理して時間を作る』と言うのは、もう一度小説を書きたいからではないですか?」
私がそう言うと、鬼塚さんは封筒に顔を埋め、何やらブツブツと呟いた後、「分かった、分かった」と言いながら顔を上げた。
その鬼塚さんの顔は、耳まで真っ赤だった。
「分かったよ、俺の負けだ、負け。」
鬼塚さんはそう言うと、姿勢を正して私に向き直り、言った。
「ジュン、好きだ。もしかしたら、最初にお前を見かけた時から、俺はとっくに惚れてたのかもしれん。」
真剣な眼差しの鬼塚さんと入れ替わるように、今度は私の顔が真っ赤になっていくのが自分で分かった。
「あー…お取り込み中、すみません…。」
いつの間にそこに居たのか、声に振り返ると、気まずそうに立ち尽くす警察官の姿があった。その後方には、同じく気まずそうなハルキ君が立っている。
バツが悪そうな顔で取調室に消えた鬼塚さんと交代で、ハルキ君が長椅子に座った。それとほぼ同じタイミングで、長い廊下の先からこちらに向かってくるあおいちゃんの姿に気付く。
ハルキ君はさっと長椅子の間隔を開け、あおいちゃんに私の隣に座るように促した。
あおいちゃんはハルキ君にお礼を言い、その筋肉質な身体をドカッと長椅子に預けるようにして座ると、疲れ果てた様子で大きなため息をつき、前傾姿勢のまま、絞り出すようにして言った。
「…無事で…良かった……。」
それから、小さな質問を矢継ぎ早に続ける。
「怪我は無いか…?」「何もされなかったか?」「本当に大丈夫か?」
私はそれらの質問に、小さく微笑んで「うん」「うん」と繰り返し答えた。
そして、「怖かっただろ?」という質問に「全然怖くなかったよ」と答えると、あおいちゃんは少し驚いた様子で顔を上げた。
別に、心配をかけまいと嘘をついているわけでも、意地を張っているわけでも無かった。
本当に怖くなかったのだ。
今日の事だけじゃ無い。マンションに乗り込んで来られた時も、嫉妬心からの動揺こそしたけれど、真央さんに対して恐怖心を感じた事は一切無い。
「あんな人、怖くない。だって私、もっと凄いモンスターにずっと恋してた女なんだから。」
私の言葉に、あおいちゃんの顔が凍り付いた。
「…どこまで知ってるんだ。」
「多分、私は何も知らない。知りたいとも思わない。」
実際のところ、シロさんが抱えていたものの正体を私は何も知らない。分かるのは、私が知る以外の顔があったであろう事。
それから、昔、大手芸能事務所にスカウトされた時、少しだけやってみたかったけれど、シロさんから「ジュンは芸能界には興味はないよね」と言われただけで、本当にスッと興味が消えたあの時のように、私は彼にいくつかの呪いをかけられているらしいという事くらいだ。
あおいちゃんの口が、言葉を探しながらゆっくりと動く。
「…俺は………お前に、謝らないといけない事が…。」
「いい、何も聞きたくないの。」
私はそれを遮って、ここ一番の笑顔で言ってやった。
「私、シロさんと出会えて幸せだったよ。」
ーーーーーあおいちゃんは、それ以上何も言わなかった。
・・・・・
取り調べからやっと解放された後、あおいちゃんが「俺は一度署に戻るので、すみませんがジュンを送ってやって下さい」とハルキ君に私を委ね、そして別れ際、「あの手紙は必要無くなりました、すみません、処分をお願いします」と言っていた。
それが何の事か私には分からなかったが、ハルキ君はいつのも優しい眼差しを浮かべながら頷いた。
タクシーの後部座席で、ハルキ君が言った。
「…ほんと、僕って情けない。あおい君に気を遣ってもらって、鬼塚さんには先を越されて。」
情けないと言いつつ、けれどその声は、気弱な彼らしくないハッキリとした強い口調だった。
「スミちゃん…ううん、ジュンちゃん。僕は、どっちの名前で呼んだらいいかな?」
「好きな方でいいよ。もともと、スミも高校の時のあだ名なの。名前の読みをわざと変えるのが部活内で流行ってて。」
「じゃあ、スミちゃん。聞いて下さい。」
私は、自惚れていた。てっきり、ハルキ君の口からは付き合って欲しいという愛の告白が出てくるのだと思っていたのだ。
「今まで、ありがとう。こんな事になって、僕にはもうスミちゃんの側に居る資格は無いと思う。沢山嘘をついて、沢山迷惑をかけて、本当にごめんなさい。大好きでした。」
そう言ったハルキ君の童顔は、今までで一番大人びて見えた。
私は、「私の方こそありがとう」と小さく呟き、溢れそうになる涙を必死にこらえた。
マンションが近付いてきた頃、ハルキ君が再び口を開いた。
「聞いてもいい?鬼塚さんと付き合うの?」
「ううん。」
一切の迷い無く答えた私に、ハルキ君は少しびっくりした様子だった。
「私、これからどうしたいか、決めた。やっと決まったの。知りたい?」
「もったいぶるなぁ。教えて?」
「あのね…。」
先程から聞き耳を立てている運転手さんに少し意地悪な気持ちになって、ハルキ君にそっと耳打ちをしようと身を乗り出した。ハルキ君の背中越し、ビルとビルの間からゆっくりと陽が昇り始めているのが見えた。
私達は、さよならは言わずに笑顔でお別れをした。
マンションに着いた安堵感からか、疲労が一気に身体を襲う。
そのままベッドになだれ込みたい気持ちを抑えつつ、冷たい水で顔を洗って自分に気合いを入れた。
恐る恐るフライパンを取り出し、コンロに火を点けた。拍子抜けするくらい怖くなかった。
シロさんが、どうして私を火から遠ざけようとしたのかは分からない。
けれど、一つだけ心当たりがあった。確かあれは中学に進学する少し前。料理好きの私の母親が、シロさんの居る前で言っていたのだ。
「我が娘ながら美人に育ったし、勉強もスポーツも出来るし、性格もいいし。あとは私に似て料理上手になれば、最強のモテ子完成だわ。楽しみ。」
もしかして、シロさんなりの嫉妬だったのだろうか?
そんな可愛い理由であんな事をしてのけるだなんて、私の恋人は本当に正体不明だ。
それから私は、自分が焼いた目玉焼きとウインナーを不思議な気持ちで見つめながらお皿に取り分け、スマホでレシピを検索して簡単な野菜スープを作った。
眠気と格闘しながら小一時間経ったころ、玄関の開く気配がして、私はまるで大好きな飼い主が帰宅した子犬のように飛び出す。
そして、これから私が口にするお願いに心底驚くであろう大事な親友に、まずは笑顔で言った。
「おかえりなさい!」
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