ギリギリまで頑張るのはコスパが悪い? 「人が良い」とは何かを考えてみた
先日、ある映画を観ていたとき、「この主人公、人が良すぎるなあ…」としみじみ感じました。自分だって明日の食べ物さえ危ういという状況なのに、見ず知らずの人が置いていった赤ん坊を放っておけず、結果的に一緒に行動することに。
普通なら、「そんな余裕はない」「自分の生活だけで手一杯」というのが当たり前なのに、それでも見捨てない。やっぱり「人がいい」とは、こういうことなのだろうか、と考えさせられました。
「人が良い」を構成する要素
私が思う「人が良い」と感じる瞬間には、ざっくりと以下の3つの要素があります。
1. 自分自身が苦境にいる
2. さらに追い込まれるリスクがある
3. それでも自分より不遇な人を助ける
人は、余裕がなくなると他者に構っている余地がなくなってしまいがち。にもかかわらずリスクを負ってでも他者を助ける行動を取れる人を見て、「ああ、この人は善良だなあ」と自然に思ってしまうわけです。
客観的な苦境 vs. 主観的な苦境
ただ、「苦境にいる」とは客観的に見て苦しそうな状態なのか、当の本人が「もう無理…」と感じている状態なのかでだいぶ違うはず。
• 客観的な苦境
たとえば家がなく、食べるものにも困っているように見える場合。そこでも他人を助ける姿は、確かに周りから見ても「なんて善良な人だ」と高く評価されやすい。ただ、その人自身は意外と飄々としていて、「実はそこまで苦じゃない」と感じている可能性もあるかもしれない。
• 主観的な苦境
傍から見れば恵まれているように見える人が、実は精神的に追い詰められていることもある。そういう状態で他者を助けるのは、本人の中では相当な葛藤があるはず。「これ以上頑張ったら自分がつぶれてしまうかもしれない…」そんな思いを抱えながらも行動を起こすなら、かなり“本質的に善良”と言えそうです。ただ、その苦しさを周囲には理解されにくいので、「人が良い」と評価されるとは限らないのも難しいところ。
「人が良い」と思われたいなら、ギリギリで踏ん張らないほうが得
「人が良いね」と客観的に高く評価されると、人付き合いも円滑になり、生きやすくなります。一方で、「本質的に善良でいたい」と思う気持ちは自己肯定感につながるかもしれませんが、それと世間からの評価は必ずしも一致しない。
ここで重要になってくるのが「余裕」。
ギリギリの状態だと、どんなに善意があっても人を助け続けるのは難しい。ましてや自分の苦境が悪化しそうなら、なおさら継続はできません。逆に、少しでも余裕があるなら、負担になりすぎない範囲で善行を重ねることができます。結果として周囲から「人が良い」と評価される機会も増えるでしょう。
まとめ
• 本質的に善良であることは、自分の中での葛藤や苦しみを乗り越えて初めて成り立つ。でも周囲からは理解されないことも多い。
• 客観的に「人が良い」と評価されるためには、ある程度の余裕があったほうが行動しやすく、結果として善行を重ねられる。
もちろん、どちらを重視するかは人それぞれ。「とにかく他人の目が気になる!」という人は、自分がギリギリになる前に余力を確保しておくほうが“コスパがいい”かもしれません。逆に、自分が本気で困っていても誰かを助けたいと思えるなら、たとえ周りに評価されなくても、きっと自分自身にとっては意味のある行為になるはずです。
「人が良い」という評価が欲しいのか、それとも自分の内なる善意を貫きたいのか。そのバランスを考えつつ、あまり頑張りすぎずに生きていきたいものですね。