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愛の循環〜学びと気づき〜
昼下がりの100均で高齢の男性が「トイレの消臭みたいのはどこにあるでしょう」と声をかけてきました。
偶然にも私はその商品の場所が思いあたったので案内しました。
「トイレの洗剤はこれかと思いますけど‥」「あ、そうじゃなくてシュっと匂いにかけるような、スプレーの、下着とか‥」「あ、でしたらこれですね、布用の。」
希望を聞きながら商品を見比べて何度も確認しました。
2つの商品を手にしながら「ありがとうございます、親切な人っているんだな、大概の人は知らないって追い払われちゃうんですよ」と言いました。わたしは
「いろんな商品があるから選ぶの難しいですよね」と言ってその場を離れました。
いつもはスッキリした気持ちなのに、何だか今日は偽善のような、自分を疑う気持ちがでてきてしまいました。「ありがとう」だけならよかったのですが、「親切な人」って言葉が何だか引っかかって。
その男性に嫌悪感は一切ないのですが、「私ってほんとに親切な人なの?」という疑問が湧いてきてしまったのです。
面倒だな、私ってw
聞かれて応えたら「ありがとう」って言葉をもらって、私も何だか嬉しくなる。
見返りを期待したわけじゃないけど、結果お互い受け取りあっている。
善と偽善の境目はどこなんだろう。
偽善だって同じ結果なんじゃないかしら。
もやもやしたまま夜になり、帰宅直後の息子に経緯を説明しました。
「そんなもん、人なんてみんな本気で人のためになんて出来ないよ、やらない善よりやる偽善だよ」
大人な息子よ、ありがとう。
高1のストレートな言葉で一気に気持ちが晴れました。
そういえば、いつも「人のために出来ることなんてないんだ」と思って生きてるのに、なんで急にあんな風に思ったのかしら。
広がった視野で見返すと、今まさに目の前にある学びでした。
自分のためなのか、相手のためなのか。
あぁ、やっとわかった、そこが曖昧になってたからいつまでも堂々巡りだったんだ。
答えは自分の中にありました。
どう頑張っても誰かのために出来ることなんてない、自分のためにした事が結果相手のためになったらそれでいい。
自分のためにならないならしなくていい、でも心が動くのは自分のためにしてるからなんだ。後先考えるより、心が望むことを選んでいこう。
自分軸がぶれているから迷ってたんですね。
目の前に起きること全てが学びと気づき。それと共に点と線が繋がっていきます。
俯瞰して見る世界はどんどん広く大きくなっていき、目の前にあっても見えなかったものもはっきりと見えるようになっていきます。
人は皆守られている、大きな愛で。
だから大丈夫、思うままに進もう。
例え未来が予想できなくても、きっとその時がきたら最善の方法を見つけていけるから。
迷った時は声に出すと必ず誰かが応えてくれます。
商品が見つからなくて困った時も、気持ちのモヤモヤが晴れない時も。
世の中はそうやって、ぐるっと一周して愛が循環しているんですね。