人知れず微笑まん【10月】
皆さんどうも、ごきげんよう。
10月もあっと言う間に終わってしまいました。もうかなり寒くなってきましたね。
やっとのことで、なんとか30単位分の提出課題を終わらせて、今月は240冊の本を読みました。
「アッ」の割には上等かもしれません。
勿論、これに加えての通常運行での労働は不可能です。
労働を最小限化(週3時間とか…)して、残りの時間を全て勉学と読書、それと宅建の過去問演習に費やした1ヶ月でございました。
お陰様で財布はカツカツです。ハハっ。
ちなみに先月三角食べをすると申しましたが、それも一応意識したつもりではあります。
古典や小説も多く読むようにいたしました。
読書に集中できる環境に身を置いて、やはり思うのは、
『読んだ本の数を数えることほど愚かなことはない』
と言うことです。言っていることとやっていることが矛盾していますね。
まだまだ私は、数字で「数えられる程度」の読書量でしかなく、読書管理アプリで記録しなければ今月頭に何を自分が読んだのか忘れてしまう、貧弱な脳味噌の持ち主である、と言うお話です。
そして少なくとも、本の単位は
「冊」
ではない、とつくづく思います。
120冊しか読んでない月でも、すごく読み込んで自分のものにしている時もあれば、150冊読んでも大した学びも得られていない月もある、と言うことですね。
そして、今月は、240冊のうちかなり大部分が自分の血肉となり、世界が広がった実感を得られています。
読むだけならもっと読めますが、アウトプットのことを含めると自分の力ではこのくらいが限度です。
『労働さえしなければ自分もここまでなら行ける』と言うことはわかりましたが、生きていく為には、いつまでも労働を放棄するわけにもいきません。
この世はこんなにも知らないことだらけで、読みたい本で溢れているのに!
学問にだけ集中することが許されている「学生」の身分がなんと恵まれていて、有り難く素晴らしいものなのか、改めてひしひしと実感しております。
そこで関連してご紹介したいのがこの一冊。
大学でいかに学ぶか 増田四郎
初版が発行されたのは60年近く前です。現代にも通じるのは勿論のこと、「現代の学生こそ」この、皆が忘れかけている学問の本質を再び思い出そうじゃないかと。
学生(特に高校生、大学1〜2年)のうちに読めば確実に人生が変わるであろう一冊です。
青春という思索と苦悩の時代をどう生きるか。ここには、歴史家として、教育者として大きな足跡を印す著者の生きた経験が、青春への変らぬ共感とともに語られている。学生生活における自由、学問することの意味。それらに触れながら、著者が強調してやまないのは、自ら考え、行動する人間へと自己形成することの尊さである。(講談社現代新書)
そして、今月行った取り組みとしては、
「高野悦子死生観探究」です。
9月末に、とある素敵な読書家の方から
「僕が尼崎さんくらいの歳の頃に読んでいた本ですから是非読んでみてください」
と、高野悦子『二十歳の原点』をプレゼントしていただきました。
実際に読んでみると、彼女はとても聡明な大学生で、14歳から20歳にかけて、自分の心のうちをありありと綴った日記をつけていて、とても私とよく似た考えを持っていました。
自分が昔つけていた日記を読んだときに感じる、こそばゆいような感覚ってありますよね。まさにあんな感じで、自分の日記を読んでいるのかと思うくらいそっくりでした。
そして彼女は20歳の時、貨物列車に飛び込んで自殺しました。
そっくり過ぎるが故、私には、彼女が死を選んだ理由が余計にわかりませんでした。
私だったらあの状況下であのような死に方は絶対に選びません。
高野悦子は、あの世などというものはないと考えて居たようです。
だからこそ、鉄道自殺などという死後の状態が極めて悪くなる、はっきりと言うと「美しくない」死に方を選択できたのだとは思うのですが、私や彼女のような、死についてよく考えているタイプの人間は、総じて、死後にこの世に醜悪な状態を晒したり人様に迷惑をかけるような死に方を避ける傾向にあるのです。
高校時代の高野悦子は、日記に
〈自殺をするときは苦しまずに死ねる方法でやりたいと思っている。首吊りは、死後の顔がすごい形相になるのだそうだ。睡眠薬は、眠っているうちに死ねるからいいなと思ったが、あれは死に損なうと畳の上を這いずり回って、気狂いのように苦しむのだそうだ。私が現在1番良い自殺法と思っているのは、両手に針金をまいてそれを電線につなぎ、タイムスイッチをかける。そして、睡眠薬を飲んで寝る。ぐっすり眠っているうちにスイッチがかかり、天国か地獄かは知らないがどこかに私は行く。 今、気が付いたのだがその方法では、家が燃えてしまう恐れがある。家族に迷惑をかけては悪いから、また何か別の方法を考えなくては……。〉
引用:『二十歳の原点 序章』
などと書き記しています。
この時点では「天国か地獄かは知らないが」などと書いているのであの世の存在を肯定しているようにも見えます。
そして、鉄道自殺は「苦しまずに死ねる」と言う観点からすると中々リスキーな自殺方法です。
もし飛び込む先を間違えて、「手だけ」「足だけ」切断されると苦しんで無駄に生きることになりますし、適切に轢かれたところで、即死できるかどうかは神のみぞ知るで、もし轢かれたあと数分でも生きていたらものすごく苦しむことになるでしょう。
即死だとして体はコナゴナのメチャクチャです。
コナゴナのメチャクチャに比べれば首吊りの死後の形相など可愛いもので、よっぽどそちらの方が良いではないですか。
人間は、穏やかな死を迎え、どんなに優しい顔をして死んでいても、その後の硬直等で般若のような顔になることがあります。
それは自然現象だし、どんな死に方をしようが死後の形相に期待などできません。
だから遺体は早々に焼かれるんですね。
大体、人間は死んだらそれは死者ではなくただの肉の塊である、と言うこともできるわけです。
かろうじて【人間っぽい】形をしているから「これは死者である」と言う認識をされるわけで、コナゴナのメチャクチャの肉の塊が散乱していたら、それはもう誰からみても臭くて汚い生ごみでしかないのではないでしょうか。
綺麗に死ぬことを望むなら、凍死が一番です。
死後の形相や家族への迷惑を気にしていたわりに、自分の汚らしい肉の塊がこの世に散乱することや自分のせいで鉄道ダイヤが乱れ、さらに大勢の人間に迷惑をかけることについて抵抗などはなかったのでしょうか。
つい、ごちゃごちゃと申し上げてしまいました。
要するに、高野悦子の考えていたことはさっぱりわからないのです。
さっぱりわからなさすぎて、今は、彼女が残した日記に記されていた「当時彼女が読んでいた本」を全て片端から取り寄せて読んでいる途中です。
全て読んだところで、彼女が考えていたことなんてわからないかもしれません。
いや、わかるわけがないですね。
でも、この研究には確実に意味があると思っています。
そして、何より彼女が思わぬ新しい発見を連れてきてくれます。
先ほどご紹介した「大学でいかに学ぶか」も、彼女が読んでいた本です。
そして、彼女が尊敬し、敬愛し、多大なる影響を受けた奥浩平という人物が居るのですが、彼も21歳の時に服毒自殺をしているんですね。
この彼が読んでいた本をまた片端から読み、また彼が尊敬していた樺美智子
と言う人物の本を読み、と、どんどん幅が広がっていきます。広がりすぎて、時間が足りません。さぁ困りました。
まぁ、2021も残り少なくなってきましたけれども、健康に気をつけて、ラストスパートも元気にやっていきましょう。
最後に、私が今月読んだ240冊、「全裸大公開」しておきます。ファッション誌は入れてません。絵本は、なかなか考えさせられたものは入れてます。
参考までに、「おお、これは…!」と感動するレベルで面白かったものには赤星つけてます。
でも基本的に、良書センサーが上がりまくっているお陰様で、読む本読む本全部面白いです。もしタイトルを見て、ご興味が湧いた本があればお手に取られて見てください。そして、感想等共有してくださるとわたくしも喜びます。
来月はさすがに200越えは無理だと思いますが、その分アウトプットが沢山出せるように精進していく所存であります。
ではでは、ごきげんよう。