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#000 私とカメ。

誰が見る訳でもないが夫婦二人の生活で時間のたくさんある時に、自分の歩いてきた人生をあんな事やこんな事を思い出しながらそーっとここに書き記しておこう。

私とカメ。
私が生まれた時、父が買ってきたカメのぬいぐるみがある。
母は嬉しそうに何度かこの話をしてくれた。

「あなたが生まれた時ね、お父さんこのカメさんもってかけつけたのよ」

地方の田舎町でごく普通の家庭で育った私。父は味噌と醤油を製造販売する会社で働き、母はパートで生計を立てていた。祖父母は農業をしていたため、両親も休日は農業の手伝いをしていたので遊んでくれる時間なんてなかった。決して裕福ではないけれど、愛の溢れる幸せな家庭で育ったと思っている。
普通では無いコトがあるとするのならば、生みの親と育ての親が違うということ。そう悲しい話しではなく…両親が仕事と農作業で忙しくしていたため、幼い頃から共に過ごす時間がとても短かった。

子供を授かることが出来なかった伯母夫婦が、私と妹を我が子のように可愛がり面倒を見てくれた。保育園と学校終わりには叔母の家で過ごし、休日は両親よりも伯母夫婦と過ごす時間が長く、いろんなところに連れて行ってもらった。母親の味は叔母の味、そういうと母は少し悲しむが、そのくらい叔母のご飯を食べる機会の方が多かった。
母は私と妹が幼い頃に時間を共に過ごせなかった事、今は少し悔やんでいるだろう。

あの時は仕方なかったのよそうするしかなかったのよ
でも、お母さんは貴方を見てくれる人がいて恵まれていたわ
母がこの言葉を口にしたことを何度か聞いたことがある。

私が4歳の時、一緒に住む祖母が私を保育園に迎えに行ったが自宅には帰らず伯母の家に行くときかない。
一人で歩いていくっていうんだものビックリしたわ。

今度は、母方の祖母がよく話していたのはこれ。
伯母の家から自宅には帰ると言い出し一人で歩いて帰ろうとしたのよ?

子供ながら、その時はその場所の居心地が悪かったのか、自分の好きな場所に帰ろうとしたのか…自由奔放な幼少時代だったと思う。

6歳になる頃、かわいいかわいい妹ができた。長年待ち望んだ妹だった。
私が帝王切開で生まれ、妹も帝王切開だった。
母が入院していた時よく父と寝ていたことを思い出す。
寒い季節、父の股が暖かくて(笑) 父の股に自分の足を挟み暖かくして寝た。
父にお腹減ったと言えば作られるのは必ずオムライスだった。
父のオムライスは、洒落たチキンライスではなく…白ご飯の上にトロトロに焼いた卵にケチャップとマヨネーズを大胆にかけ少しだけ醤油を垂らすのだ。
このオムライスが私はとてつもなく大好きで今でもよく作って食べている。
食べる度に父を思い浮かべる、思い出の味。

父の口ぐせは、昔も今も変わらない。
ごめんね、いつもありがとうね助かりました!!何ば買ってやろうかね?

すぐにご褒美を与えようとする父。でもいつも、申し訳なさそうに同じ言葉を言う。気にしなくていいんだよ。といってあげたいが涙が出てきそうなので、いつも言えない。

小学4年生になると夕飯の担当は私か祖母だった。
料理は伯母と母方の祖母に習ったのだろうか。母も時間のある時は一緒に台所に立ち料理をしたが今私の味付けのベースになっているのは完全に母の実家の味らしい。

母からその日の夕食費をもらいスーパーに買い出しに行くところから始まる。その頃、湯煎をするタイプのハンバーグがとても美味しく、祖父母も好んで食べていた。その日の食べたいものをヒアリングし予算内で買い物をする。家に帰ってそれらを調理し時間までに祖父母と夕飯を済ませる。
なんて素敵な社会勉強をしていたんだろうと今思う。

その頃は好きでやっていただけだった。
専用の包丁を買ってもらい嬉しかった。祖母とガス炊飯器で炊きたてのご飯の香りを楽しむのが好きだった。祖父が美味しいと言ってご飯を食べれくれるのが好きだった。母に、ありがとう!すごく助かったよ!と言われるのが好きだった。父が晩酌する時に安心した幸せそうな顔で酔っ払う姿が好きだった。

ワタシ、料理をすることが好きなんだ!と思ってたけど…人が喜ぶ事が好きだったんだ。人と喜びを共有することが好きだったんだ。今そう気づいた。

人の喜びは自分の喜び
人が喜ぶことをしたい
これが私の原点なのだと気づいた。

最後に…
私の名前には、母の大好きな花である「向日葵」の文字を一字とって付けてくれた。気づけば、母の大好きな花は私の大好きな花にもなっていた。
常に太陽の方向を向き咲いているひまわりのように、常に明るい方を向き人と人とを繋いでほしい。そんな思いが私の名前には込められている。

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