例のnoteは読まなくていいけど女追放はヤバいので読んでほしい

女追放の作者のnoteが話題になってました

まあ話題になってたと言ってもリツイート数が100いくらなので狭い界隈の内部だけですけどね



ツッコミどころ多すぎ

最初から怪しい

「非百合作品で描かれる曖昧な百合描写へのうっすらとした忌避感がある状況やキャラクターが同性愛者であることの明言をこそ『正しい』とする風潮がある現状で、私自身が『私自身を肯定しながら』百合作品を発表することに困難を感じている」という趣旨の記事です。

記事の内容としては、”女追放”の作者さんが「自分の出したい作品と界隈の求める『正しい百合作品』がズレていて息苦しい」みたいな内容です。整理すると

前提①:非百合作品で描かれる曖昧な百合描写へのうっすらとした忌避感がある状況がある

前提②:キャラクターが同性愛者であることの明言をこそ『正しい』とする風潮がある

主張:女追放の作者は同性愛や恋愛に限らないファジーな百合が書きたいのだが、百合作品と明示しない作品内で百合描写を入れた場合に忌避感を示されたり、百合作品であったとしても同性愛者と明言しないことで正しくないとされるのは嫌である


…なんかもう怪しくないスか?


尊師登場

非常に安定した読書家のかたで、個人的にも(特に百合の)趣味が合うなと感じているので参考にさせていただいている記事です。

(尊師の記事引用)

ここで引用されている人こそ、我らがナナつばき尊師です

非常に安定した読書家かどうかは知りませんが百合の趣味が合うらしい。

あの…この記事は自分の書きたい百合(尊師を始め)百合ファンダムの好みが違うみたいな話するんじゃ無いんですかね?というのが気になるが…

続きを見てみましょう

・「サービスシーン」と思しき百合シーンがあるんだけど、非百合作品のこういうシーンをどういう気持ちで読んだらいいのか分からない百合ファンです。

尊師のブログ

ナナつばきさんがどういった部分を「サービスシーン」と感じられたかについては不明なのですが、この一文は現在の百合ファンダムにおいて、マジョリティを占める感覚なのではないかと思います。

それに対する女追放の作者


引用されている尊師のコメントは「なんか百合小説でもないのに女同士のイチャつきあって気まずかったわw」という話で、これが最初に挙げていた

前提①:非百合作品で描かれる曖昧な百合描写へのうっすらとした忌避感がある状況がある

の根拠として引っ張り出されているらしい。

問題はこれが”百合ファンダムにおいて、マジョリティを占める感覚”かどうかなんですよ。


まずここで挙げられてるナナつばき尊師百合ファンのマジョリティ的な感覚を持っているとは言い難いんですよね


尊師の普段のツイートから読み取れることとして以下のものがあります

・過去には色々な百合作品を読んでいたが、現在ではほぼ恋愛モノしか読まず、恋愛モノ以外に触れる場合はそれがある程度知名度のあるときだけ
・百合っぽいアニメを見て感想をツイートする際に毎回「今回のヘテロ警戒度」を書いていたせいで”ヘテロ警戒度”の生みの親としてバカにされる
・レズエロ夢音声を楽しむ
・年収180万基本給月18万トワツガイ年間100万
・”女追放”のファン

一番上はそういう百合ファンもそこそこ見るな~って感じですけど、残りは全部「こんなやつ身の回りにいねーよ」ってのが大半じゃないですかね
(おれの相互フォロー内にいたらごめんね)

まさに”尊師”と呼ばれるに相応しい偉人であり奇人なんですよコイツ


で、肝心の引用されてる内容としては

「サービスシーン」と思しき百合シーンがあるんだけど、非百合作品のこういうシーンをどういう気持ちで読んだらいいのか分からない百合ファンです。

尊師

これが”百合ファンダムのマジョリティの感覚”だろう、というのが女追放の作者の主張の前提です。

確かに俺も尊師の話に同調する気持ちもある。



しかし…

こんなん問題に挙げるほどのことか!?

ジャンルAをよく読むオタクAと明言されていない作品Aっぽいシーンを見てこそばゆい思いをするってそんなに変な話ですか?

下手なパロディでうすら寒い気持ちになるとか、福本伸行作品とかでセクシーギャルのサービスカットみたいなのが出てきて気まずくなるとか、よくある話じゃん?

俺はここで尊師が語っている小説を読んだ訳じゃないので何とも言えないが、一般的な話として見たときに、
百合オタクが「ウヒョー百合じゃん!」ではなく「うわなんか百合シーンみたいなん出てきた何だコレ」となったのなら、それは単にその百合っぽいシーンが下手なだけじゃないかと思う。シーンそのものというか作品に合ってないとか。



もう尊師関係ないやん編

そして女追放の作者の話はまだ続く

①キャラクターが女性同性愛者と明言しないことはフェアではない
②百合だからといって「悲恋(特に、同性以外とカップルになるなど)」になることは正しくない
③作品内に不必要な男性キャラは必要ない

などが現状、私が観測できるファンダムの主流なのかな……と思っています。

女追放の作者

もう尊師の話全然関係なくなっちゃった!


女追放の作者が言うには、現状の百合ファンダムの主流は

①キャラがゲイと明言されないのはアンフェア
②百合だからといって悲恋になるのは正しくない(特にノンケ落ち)
③作品内に不要な男キャラは不要

であり、それらを守らないと正しくない百合として断じられてしまう!ということらしい


もう意味わからんすね。

まず③の作品内に不要な男キャラは不要が最も意味がわからん

不要な男キャラなんだから不要だろ
不要な女も不要なパンダも不要だよ
だって不要なんだもん
論外


①キャラがゲイと明言されないのはアンフェア
②百合だからといって悲恋になるのは正しくない

①は上で挙げた

前提②:キャラクターが同性愛者であることの明言をこそ『正しい』とする風潮がある

の話で、クィア・ベイティングの文脈からの批判ですね。
これは若干見覚えあります。

ただ実際に登場人物がゲイだと明言されてる作品はまだまだ少ないし、特にゲイと明言されない百合作品も気にせず読んでいる百合オタクの方が主流なんじゃないかと思います。

だって全キャラのセクシャリティがオープンにされてる作品しか楽しめない人は読むモンがほとんどないだろうし…

(最近は恋愛モノの百合だと流石に言及されることも多い…のだが、最近でも日常系作品等ではまだまだ)

フェアかどうかで言ったら、非百合作品のヘテロっぽいキャラもヘテロと明言されてるわけじゃないことが多いからフェアだとは思うんですけどね。
その辺の理屈はクィア・ベイティングで検索してみてください。
テコ朴じみた理由付けが出てきます。


②百合だからといって悲恋になるのは正しくない(特にノンケ落ち)

恋愛ジャンルなんだから悲恋失恋が歓迎されなくて当たり前やんけ!と思った人、あるいは悲恋も恋愛モノの旨味なんだから好きな人もいっぱいおるやろと思った人は気が早いです。

ここで重要なのは”正しくない”の部分。


アメリカのポリコレ方面で言われがちなこととして「フィクションのLGBT死にすぎ問題」があります。

その延長としてセクシャルマイノリティを不幸に描くことへの批判があるわけです。

ふーん、じゃあ幸せになるのはノンケだけでよくって、逸脱したレズビアンは死ねばいいんだ?(ヒスママ)
みたいな感じです。

わからんでもない話ですが、これが主流か?って言われるとやっぱりそこまで気にしてない人の方が多いんじゃないかなと思います。

ノンケ落ちが嫌な人は多いだろうけど「政治的に正しくない」とまで言う人は尊師とその周辺ぐらいになるんじゃないかな…


なんでこうなったのか考察

そもそもほんまに百合好きなんこいつ

まず女追放の作者を読む側の百合好きとして見たとき、あまりにも百合に明るくない

あのキスを百合姫の作品だと思ってる。

フリーレンをジャンプ漫画だと思っている人が少年漫画の読者について語ったり、アベンジャーズにバットマンいないの?って言ってる人がアメコミについて語ってたらヤバいですよね。


じゃあ書く側としてどうなん、と言うと…

あんま出してないらしい。


んで、代表作の女追放はというと…出来の悪さは置いておくにしても、女性同士の感情の機微の描写よりもフェミニズム要素の方で評価されてるんですよね

おれも途中まで読みましたが、
「へっ!これだからオンナはヨォ!」みたいな男が出てきてチートパワーの女がぶちのめしてポリコレ説法する流れを延々と繰り返していて、ずっと男の話してんなコイツら…って感じでした。
(女も「やれやれこれだから野蛮なちんさんは…」みたいなのしかいないし、やられ役の男も女に嫌がらせはするけど性欲は無いゲイみたいな感じで何がしたいのか意味わからん)


ここからは俺の偏見ですが、

女追放の作者の言う「百合ファンダム」はぶっちゃけ女追放の読者層のことです。

女追放の読者層というのは女同士の感情のやり取りより男叩きで喜ぶ傾向が高い人たちです。

ポリコレであるかフェミニズム的であるかどうかばかりに注目して、世間でバンドリ迷子が話題になってるときもガンダムの同性婚がどうとか延々言ってた奴ら限定の話です。

そういう人たちに正しく認められたがる作者も同類です。

同類なんだから息苦しいのは諦めたほうがいい。


最後に

俺が子供の頃は「ガキにゲイを見せるのは性的混乱を招くから良くない」というのが「教育的で正しい」考えでした。

今じゃあ学校にゲイを呼ぼうみたいな世の中です。
道徳の授業でLGBTについて扱う所もあるらしいですね。

俺としては、正しく認められようとする人LGBTの味方になることはできてもマイノリティの味方になることはできないと思う。

当時、正しく認められようとした人たちが変態性欲のホモを光の下から遠ざけたように、今も道徳の授業で教えるためのカテゴライズをされていないマイノリティというのはたくさんあります。
それらを包括的に守ろうとしたら道徳の授業で褒められる道を外れる必要があって、そういう正しさに拘らないマイノリティへの包括的な受容の姿勢と、女追放の作者のやりたい”正しくないかもしれない百合作品”が受け入れられることは無関係じゃなくて正しくある必要そもそも無くて

終わり

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