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娘と母の長いおやすみ

娘が風邪をひいてしまった。

それは暖かい日差しのさす日曜日の午後のこと。
どことなく頬が赤い娘の姿に、「もしや」と思い熱を測ったら38度あった。
幼稚園の中でも風邪は大流行。
何事につけ情報に疎いわたしの聞いたことのない病の名前が、ママたちのグループLINE上で飛び交っていたが、当時はどこ吹く風だったのに。

なんだ、溶連菌か、りんご病か、マイコプラズマか。はたまた…。
目の前の娘はただ熱があるというだけで、いつもと同じようにはしゃぎ回っている。
しばらくは経過観察だなといつもと同じように過ごすことにした。

翌朝、熱を測ると平熱だったが大事をとって園は休ませることにした。
「今日は特別にお休みだよ」と説明すると、「とくべつにおやすみ」という言葉を嬉しそうに繰り返している。夫もその日はオンラインの仕事だけだったので在宅だった。家族みんなが家にいるということが嬉しくて、ちょっとしたことで大声を出したり走り回ったりして、娘の回復力に驚いていた。
子どもはすぐに熱を出すけれど、あっという間に治るものだ、と。

しかし夕方、ぐったりと力がなく食卓の席でも全く箸が動かないので再び熱を測った。
39度を超えていた。
なんだ、治っていたわけじゃなかったんだ。
すぐに心を看病モードに切り替えて、ジュースを冷蔵庫から取り出して娘に勧めると飲んでくれた。
元気はないくせに、夫がくだらない冗談を飛ばすと全部に反応してしまう。

娘は次第にヒートアップして、「もー!」とか「こらー!」とか言って怒っている。
ちょっと、今は風邪なんだから落ち着いて。どうして夫はこういうときにも通常運転なんだろう。
それにしても娘の「もー!」の言い方が私とそっくりである。「もー!」も「こらー!」も私の専売特許だったんだけどなぁ。
時々、聞き覚えのないネガティブな言葉が娘の口から飛び出すことがある。
ある日「もう、みんな嫌い!」と叫んだときにはびっくりした。
園で聞いたのだろう。ただ、そうした言葉は流行が廃れるように、いつの間にか家庭の中からは消えていく。
しかし、家庭の中で使われている言葉は、娘の耳にもしっかりと刻まれてしまうようで繰り返し使っている。
つまり、「もー!」や「こらー!」を私が日常的に遣っているというわけで…。
耳が痛い。

娘と同じ年頃の子どもを持つ、友人家庭から聞いた話だが、「幸せだね」という言葉を日常的に使っているとか。なんて素敵な口癖だろうと、しばらくは「幸せだね」と真似をしてみたのだけれど、意識しないで口に出せるようになるにはとんと及ばず、しばらくして忘れてしまった。
真似して欲しくない言葉は、意識せずとも口に上るのに、反対はそうはいかない。

その日は早く寝た娘。
病のときは心細いらしく、目が覚める度に「おてて」と言って手を繋ごうとする。
明日も家で安静にしていよう、そう思って眠りについた。


そんな風に、娘と私の長いお休みが始まった。

当初は2、3日で治るだろうとたかを括っていた。それがこんなに長くかかるとは、子どもの風邪をなめていたのかもしれない(この文章を書いている翌日曜日まで、娘は風邪っぴきだ)。

一緒に過ごせて嬉しい。でも、一日に数時間でも幼稚園に行ってくれると色々なことが捗るんだけどなぁというのが正直なところ。幼い子どもと一緒にいると、いかにして遊ばせるか、何を食べさせるかということばかりを考えてしまう。

それでも、彼女は1年前と比べると格段に成長した、と思う。
娘と接していて、時にはっとすることがある。
目の前の小さな人にも、ひとつの人格があるのだということに気づかされる。

「だから、そんなふうに言わないで!」
顔をぐちゃっと歪めながら叫ぶ娘。
ごはんを食べるから机の上を片付けなさい。いやだ、もうちょっと遊んでから。じゃああとどのくらい?これとこれをやってから。わかった、じゃあそれが終わったらね。
ねえ、もう遅いよ。今食べないとどんどん遅くなっちゃうよ。あともうちょっと。これをやってからって約束したじゃない。でも寝るのが遅くなっちゃって明日起きれないよ。片付けよう!
そうすると、娘は叫ぶ。そんなふうに言わないで!

今イライラしているなということが、計量カップで酒やみりんを測るかのごとく最近は目で見るようにわかる。問題はイライラを溜めておく容器が、小さじ程度したないということだ。
あぁ、イライラしているな、と感じたと思ったらあっという間に溢れ出てしまう。
そうすると、声に、態度にそれが現れてしまうのだった。

娘が抗議するのももっともだ。
何がしてはいけないことで、何なら許されるのか。賢明な園の先生たちに少しずつ教え諭されている娘にとって、母という存在は無法地帯だ。

色々な状況を加味してその場その場で適切に判断していると言えるかもしれないが、言ってみれば大人の都合。そんでもっておまけに感情もぶつけてくるんだから、ただの横暴である。

「そんなふうに言わないで」という娘の言葉には、もっと温かみがあって互いへの配慮があるやりとりが可能なのだということを思い出させてくれる。そして、それを娘が期待しているということも…。
娘の方が、よっぽど人間らしい。

黒々とした立派な眉を少しだけ寄せながら、真剣に紙を切る娘。
何よりも工作が好きで、他の遊びだとすぐに飽きてしまうのに、工作だと時間を忘れて熱中している。
そんな彼女の横顔を見ながら、また、このひたむきな表情のうちにひとつの人格があることに気づかされる。

子どもは、物か何かのように管理できる存在ではないのだ。

何かの本で読んだ。かつてジョン・ロックは「その人に早く一人前の人間になってもらいたかったら、できるだけ早くその人を一人前に処遇するべきである」と言った。
子どもはときに、期待された通りの振る舞いをする。
我が子を「しようのない子」と考えて、そのように言っていれば、子どもも「しようのない子」として振る舞い、成長していくだろう。
反対に、子どもを心から信じ最善を期待するのであれば、やがてその通りに成長していく。

親の都合に合わせて、やれこっちに行けだの、やれあれをしろだのと押し付けていたら娘はこれからどうなっていくだろう…。
なんて、そんな極端なことを考える必要はないかもしれないが、ときとして理不尽すぎる言動を繰り出す娘の内にも、尊いひとつの魂を認めて、かっとする心を静める時間を持ちたいものだ。

長いお休みはまだ続いている。
一緒に床にブロックをばらまいて、お手製の公園を作ってみたり。
ドールハウスを前にしてひとりごとを呟きながら、人形を動かしてみたり。
いつもなら寝る前に2冊しか読まない絵本を、制限なく「もう一回読んで」とせがみ、顔を寄せて読んだり。

子どもに付き合っていると思うと苦行のようだが、一緒に楽しんでいると思えばこの上なく贅沢な時間を過ごしている。

「冬なのにまだ暖かいね」と言ったら、娘に「まだ秋だよ」と訂正された。
薄いコートをひとつ羽織るだけで外を歩けるほど、外はまだ暖かい。
それでも踏みしめる靴の下には、深く濃く紅葉した落ち葉があり、どこかからクリスマスソングが流れてきて季節を告げている。

今日から12月が始まった。
頂き物のアドベントカレンダーの窓をひとつ、娘と共に開けようと思う。

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