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夫が娘に本気で怒った夜。理性や意志の力で子育ては変えられるのか。

感情や気分に流されず、理性や意志の力によって生きていけたらどれほどいいだろう、と思う。
特に子どもたちと接していると。


自分のことは自分でできるようになって欲しい。だから食事のときはひとりで食べるように促す。
でもひとりで食べかけたと思ったら「あーんして」と言って膝の上によじ登ってくる。
「ひとりでやってごらん」と言うものの、時間がなくて急いでいるときには焦るように娘の口にスプーンをつっこんでいる。


怒鳴ってはいけない。いくつかの育児本を読んでそう決意するものの、公園で約束の時間を過ぎてもまだ帰ろうとしない娘を前にするとつい大声が出てしまう。


大声をあげると一応は言うことを聞いてくれる娘である。
だからこそ性懲りもなく怒鳴ってしまうのであるが、怒鳴った後は後味も悪く、何よりも疲れること疲れること。
娘も寝る前のお祈りの時間に「お母さんがプンプンしないでニコニコ過ごせますように」と祈るもんだからたまらない。もう怒鳴らないようにしようと、その時は真剣に思うのだけれど、翌日になるとまた大声をあげながら裸で走り回る娘を、鬼の形相で追いかけている。

意志薄弱な私だ。子どもを前にすると、つくろったものはすぐに剥がされて、本当に自分の血や肉になったものだけが試される。


ところで、娘が最も恐れているのは夫である。
いくら私が大声をあげてもケラケラ笑ったり、神妙な顔をするばかりの娘も、夫が雷を落とすと本気で泣き出してしまう。

先日もそうだった。
夕食が終わり、家族各々まったりムード。娘は折り紙をハサミで切る遊びに取りかかっていた。息子はそんな娘の元に這い寄り、一緒に遊びたくて仕方がない。ハサミを息子の手に渡すと危ないと、再三親にも言われ、本人も絶対に大切なハサミを渡したくないと思っている娘は、息子の手が届かないようにとソファの上に立ってハサミを使っていた。

時々、「だめ」「触らないで」という娘のとがった声が聞こえてくる。

ごく稀に(1日に1度あるかないか)、意地悪な姉から天使のような姉の姿が現れることがある。かいがいしく水筒のお茶を口元に運んでお茶を飲ませてやったり、積み木を高く積み上げて弟に「壊してもいいよ」と言ったり。そんなときは微笑ましいというよりも普段の姿からのあまりの豹変ぶりに驚いている。暴君と天使と、どうやったらこんなに極端なふたつの人格が行ったり来たりするのだろう。

ずっと親を独占できていたのに、急にライバルが現れた戸惑いはわからなくもないが。
新しい家族の誕生を経験した娘と、初めから敵のような存在がいる息子と、どちらがよりタフに育つだろう。そんなことも思いながら、第一子にもっと優しくしなければという考えと、でも彼女のやりたい放題を止めなければというジレンマに悩まされるのだった。

突然、どん、という鈍い音がした。
同時に、息子が火がついたように泣いている声。
そして夫の大声。
私は洗面台に向かって無心に歯を磨いているところだった。急いで口をゆすぎ、家族がいるリビングに向かう。
「さっき何したの!」
夫が娘に向かって問い詰めている。娘の顔は既に涙でぐちゃぐちゃだ。
ちょっと持っててと、夫が泣いている息子を私に渡した。
つまりこういうことらしい。ソファのふちにつかまり立ちしていた息子を、上から娘が押してしまった。そして息子は頭から床に倒れ、大泣きしている。

「何したの!言いなさい」
普段は冗談ばかり飛ばしている夫も、怒るときは怒る。
さすが、「お腹から声を出す」が実践されている。私が以前、娘を怒鳴ったときのことだ。
私としては精神が昂って、なりふり構わず鬼のように怒っていたつもりだったのだが、少しばかり経って夫が「なんだか声が出し切れてなかったねぇ。お腹から声を出すんだよ」と気の毒そうに言った。
自分の苛立ちをダメ出しされるなんて、悔しい。
それ以来、怒鳴ることが激減した。

結婚してから体重が大幅に増えてしまった夫。自分の写真を見るたびに、「なんだか太いね」とつぶやいている。恰幅の良さと声の大きさは比例するのだろうか。
自分に向けられている声ではないとしても、聞けば思わず体がすくんでしまうほどの大声だ。

「何をしたの?自分で言いなさい!」
娘は泣きじゃくりながら小さな声で答える。
「手がすべった」

そりゃないだろう。
夫の声はまた一段と大きくなって怒る。
「嘘をつくのは嫌いです!押したんでしょう!」

泥沼のような一場面を、寝室の暗がりの中で怯えている息子を抱っこしながら見守る。

どれくらいの間、夫と娘の問答が続いただろう。
ようやく、しゃくりあげる娘が夫に手をひかれながら寝室に現れた。
「さあ、ごめんなさいと言って」
夫が促す。娘は舌が回らない言葉で、ようやく「ごめんなさい」と言った。
私も夫もほっとした。そして疲れた。

その後夫は、しばらく娘のことを抱きしめていた。
娘は娘で散々泣いた後の表情は晴れやかで、いつものように夫のことを追いかけ回してはじゃれて遊んでいた。


翌日の朝、台所でコーヒーを淹れてすすっていると、夫が起きてきてソファに座った。
珍しく神妙な顔をしている。
「あんなに大声をあげなくてもよかったのかもしれない」
夫がつぶやいた。

夫が反省しているなんて本当に珍しいと思いながら、黙ってコーヒーを飲み続ける。
「叱ったことはね、間違ってないと思っているの。ダメなことはダメって伝えないといけないから。でも、あんなに大声をあげなくてもよかったんじゃないかと思って」
大声をあげると子どもはパニック状態になって、ほとんど言われたことを理解していないのだ、と夫は続けた。

そうだねえ、そうだねえと私は答える。
こうやって、自分の行いを反省している夫を偉いと思った。


子どもに対してこうありたいと願うことと、実際にやってしまうことがかけ離れてしまうことがある。
やってみて、あちゃーと思う瞬間が今まで幾度あっただろう。

その度に、「もう二度と繰り返さない」と決意して、自分の行いを変えられたことがどれだけあっただろうか。ほとんどは、ただ自分に対して呆れ、あるいは嫌悪するばかりで、子育ての大変さと題したほろ苦い思い出の中にしまわれていくばかりなのだ。

自らの意志で行動を変えられる人を心底尊敬する。
でも、それを自分に求めようとは思わない。
ちょっと鞭を打てば、簡単に崩れ落ちてしまうような軟弱な母親なのだ。私は。

そのかわり、こうできたらいいなと願う子育てと、子育ての中で拾った小さな宝物のような瞬間(たとえば夜中、寝言できゃっきゃと笑い声をあげる娘を見たときとか)をたくさん、たくさん、胸の中にしまっていきたい。

そうすれば、いつもよりも優しく、温かな心を子どもたちに向けられるような気がしている。

「お母さんがプンプンしないでニコニコ過ごせますように」
娘の祈りと共に、私は少しずつ、少しずつ母として成長している。

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