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「泣いてもいいよ」は、子どものため。そしてわたしの自身のため。

子どもの泣き声が少し苦手だ。

その日は娘とあまり遊んであげられなかった。1ヶ月ほど前から歩くことができるようになり、頻繁に外に行きたがるようになった。
娘がよちよちと歩いては外の世界に夢中になっている姿を見たくて、連日のように外に散歩に出かけていた。まだ季節は夏。暑さに体がまいってしまったのか、ある日目覚めると体がだるくて仕方がなかった。

元気なときは、子どもは最高の遊び相手だ。積み木でも粘土でも見せて「一緒にやろうよ」と誘えば、いつだって目を輝かせながらやってくる。
子どもはリアクションの名手でもある。歌ってみたり、おどけてみたり。大人の動きをじっと観察しては身振りを真似して、大笑いしている。

疲れも憂も知らない、エネルギーの塊のような子どもだけれど、特に苦手なことがある。
それは放っておかれることだ。
周りの大人たちが忙しそうにして、自分たちのことにかまけている時、子どもは急に不安になる。「さびしいよ」「わたしの方を見てよ」と、自分に注目して欲しくて、声を出してみたり、とびっきりのおもちゃを引っ張り出してきて、大人の前に持ってきたりする。
それでも自分の方を見てもらえないときは、最終手段、泣くしかない。泣いて泣いて、顔をしわくちゃにさせながら泣くのだ…。

とまあ、勝手に子どもの気持ちを想像してみたのだけれど、実際には子どもがなんで泣いているのかわからないことも多い。あれかこれかと理由を探して泣き止ませるのだが、冒頭に書いたようにわたしは子どもの泣き声が少し苦手だ。気持ちに余裕がある時ならまだしも、余裕がない時に大声で泣かれると、こっちも泣きたくなる。そんなわけで、どちらかと言えば子どもの気持ちを先回りして、泣く前にあれこれとやってあげていることの方が多いのかもしれない。

✳︎

その日はわたしが体調が悪かったこともあり、あまり娘にかまってあげられなかった。すると娘はしょっちゅう泣いたりぐずったりしながら、わたしの側から離れようとしない。
近頃は連日晴れていたというのに、その日の午後になって雷が鳴ったと思うと、急に土砂降りの雨が降り始めた。咲いたばかりの朝顔は、激しい雨に打ち叩かれてこうべを垂らしている。
こんな雨じゃ外には行けない。
しょっちゅう、靴を持ってきたり、「(べ)ビーカー」と言っては外に行きたいとアピールしてくる娘だが、わたしが頑なに動こうとしないので諦めたようだ。
「遊ぼう」とばかりにソファに横になって休んでいるわたしの前にやってくる。しかしわたしが動かないのを見ると、娘は急にわたしの頭を思い切り叩いた。
「痛い!」
思わず声が出る。実際にはそれほど痛くないのだけれど、感情的になっているせいか、必要以上に大きな声が出た。娘は一瞬ピクッとして動きを止めたが、また同じように頭を叩いた。
「やめてよ」
わたしは娘の腕をつかむ。すると娘は腕をふりほどこうとしながら泣き始めた。
「どうしたの?」
わたし達の声を聞いた夫が別室から様子を見に来た。
娘が再度、頭を叩こうとするのを見ると、普段は見せない厳しい顔で、娘に「駄目!」と叱った。「痛いでしょ、ぺんって叩いたら」と続ける。
その言葉の意味はわからなくても、自分が叱られていることはわかるらしい。娘は雨音すらかき消すくらいの勢いで顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いている。
その姿を見ながら胸が痛むと同時に、どっと疲れを覚えた。

晩御飯を終えると、娘はめずらしく、すぐに横になって寝てしまった。いつもなら絵本を読んだり、横になっている親のそばでもうひとはしゃぎしてからようやく寝るのに。
その寝顔を見ながら、なんとも言えない申し訳ない思いになる。
そっと寝室から出ると、娘が気に入っている手作りのおままごとキッチンが目に入る。わたしが段ボールで適当に作ったものだが、作りが甘かったせいかだいぶ傷んでいる。がさごそと余った段ボールやテープを持ってきて修復するわたしの姿を、夫は側で本を読みながら見守っていた。

手作りのおもちゃの修復が終わる頃には、時計の針が1時間は進んでいた。普段は子どもが寝ているときにはそそくさとお風呂に入ったり、趣味の本を読んだりするけれど、今日はそんな気分になれない。ふと思い立って本棚から一冊の本を手に取った。

その本のタイトルは『”泣いてもいいんだよ”の育児』。

一度読んだことのあるこの本を、もう一度読んでみたくなったのは、子どもへの接し方を改めて確認したくなったからなのかもしれない。
この本が伝えているのは、「泣くこと」は赤ちゃんにとって精一杯の自己表現だということだ。「おなかがすいた」「ねむたい」「たいくつだよ」「うんちがきもちわるいよ」
などなど、自分の気持ちを泣くことで伝えようとしている。
泣くことは悪いことじゃない。泣くことで大人たちとコミュニケーションを取ろうとしている。
「どうして泣いているの?」「泣いてもいいんだよ」
そんな姿勢で赤ちゃんと接すれば、赤ちゃんは自分を丸ごと受け止めてもらえたような安心感を持つようだ。

もう赤ちゃんとは言えない年齢の娘も同じなのかもしれない。
「泣くこと」で自分の気持ちを伝えようとしている。
わたしは子どもが泣くとそわそわしてしまい、すぐに泣き止ませようと食べ物を与えたり、おもちゃを持ってきて見せたりすることが多かった。
泣かせないようにする行動は、「泣かないで」「泣いているあなたはいやだ」というサインを遠回しに送っているのかもしれない。

「どうして泣いているのかは、赤ちゃん本人に聞いてみましょう」とこの本には書いてあった。泣き止ませる方法を、必死に育児書で探したり、ネットで検索するのではなくて、目の前の子どもに訊ねてみる。
赤ちゃんが言葉をしゃべって教えてくれるわけではないけれど、目の前の赤ちゃんに向き合っていれば、きっとわかってくる。何より、赤ちゃん本人が、「親がちゃんと向き合ってくれた」ということに安心感を持つのだろう。

どこか、子どもが泣くことをかわすようなことが多かった最近の生活を振り返りながら、今度子どもがぐずり始めたら、おかしでもなく、おもちゃでもなく、「どうして泣いているの?」、「泣いてもいいんだよ」と、伝えてみたい。
子どもが「泣いてもいい」と思えたことで、心がふっと軽くなった。


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