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毎夜テントで寝る娘と、「甘えられている」ことに気付いた日のこと

子どもを育てていると、「それくらい自分でやってくれ…」と思わず心の中でつぶやいてしまう瞬間がある。

先日の夜のこと。私と息子は布団に入り、電気も消して、さあおやすみなさいというタイミングで娘が急に悲鳴のような声をあげた。

「お布団かけてぇ」

子ども用の小さなテントからはみ出した黄色い毛布。数週間前から娘は寝室ではなく、台所にテントを設置してその中で寝ている。
突如始まったテント生活を親としては「2、3日で止めるでしょう」と踏んでいたのだけれど、「今日もテントで寝る!12月までテントで寝る!」と毎日のように嬉しそうに宣言するものだから、もしかしたら本当に年中テントで寝るのかもしれない。

そのお気に入りのテントに持ち込んでいる、これまたお気に入りのふわふわの黄色い毛布。
いつもなら自分でさっとかけて寝るのに、今日に限ってかけて欲しいと言う。

遊び、夕食、お風呂、着替え、歯磨きと、子どもたちに対する一連の関わりを終えてやれやれやっと休めると気を抜いたところで「布団をかけて」と言うのは、こちらの忍耐が試しているようだ。

忍耐強くとは言い難い振る舞いで対応し、(娘のところに走っていき、さっと布団をかけて、また走って自分の布団に戻った。その間約5秒。)大きな声で「おやすみー!」と娘に声をかけると、テントから小さな泣き声が聞こえてきた。
しばらく寝たふりをしていたが、泣き声は止まらない。

仕方ない。
また走ってテントに戻った。入り口の布をあげて娘を覗き込む。仰向けになったまま声をあげて涙を流していた。
最近、感情が爆発して泣くことはずいぶん減ったけれど、時々こんな風に言葉で言えないことを泣くことで訴えている。

先ほどまでは、どうして一度布団に横になった私が毛布をかけに戻らなきゃいけないのよ!と心でぶつぶつ言っていた不満が、娘の涙を見ると瞬く間に消えていく。
私の言い方が雑だったね、君が求めていたのはそうじゃなかったんだね、と思いながら、しばらくその場所で娘が寝るのを見守った。


不意に、自分が娘に「甘えられている」のだという自覚に胸を突かれた。

そういえば、親になるまで誰かに甘えられたことがあっただろうか。

小学校、中学校、高校、大学、社会人と、歳を重ねるにつれて歳下の人との関わりも増えていく。
部活動や、サークルなど、後輩と関わる中で「教える」ということはあっても、「甘えられる」ということはなかったのかもしれない。
いや、本当は甘えられている瞬間もあったのかもしれないけれど、見過ごしていたのかもしれない。
美術部という、ある意味自分の世界に浸りがちな群れの中でも、「先輩、先輩」と言って慕ってくれる後輩たちがいた。
そんな後輩たちにもっとしてやれることがあっただろうにと、今更ながらに申し訳なく思う。

自分のことを、「人付き合いが苦手」とか、「内向的」だよな、と考えることがある。
だって、「人付き合いが得意」とか「外交的」なんて口が裂けても言えない。
でも自分が思う、「人付き合いが苦手」とかいった自分の傾向は、自分の名刺の上に印字して、「こういう者ですからよろしく」なんて言ってまかり通るものではない。

待ったなしで繰り出される子どもたちの要求を前にすると、たとえ経験値が0だったとしても立ち向かっていかなくてはならないのだから。

「あなたが特別だから」という理由よりも、「一緒にいるから」という理由で人は助けたり助けられたりして、関係を築いていくことが多いように思う。

どんな人にも、毎日のように、あるいは定期的に顔を合わせる人がいるはず。
それは家庭であったり、職場であったり、学校であったり、趣味の場所であったり。

願わくば、全ての人が感じが良くて、よく気がついて、失敗しても優しくフォローしてくれて、聞き上手だったらいいなぁと思うのだけれど、現実はそうじゃない。
中には、こちらの失敗を鬼の首を取ったようにして責め立てる人もいるし、挨拶をしても返事がかえってこない人もいるし、会話の糸口がまったくつかめない人もいる。

それでも、同じ場所に一緒にいる人だからこそ話せることがあり、助けられることがある。

例えば私は、幼稚園のお母さんたちの姿を見ながら、子どもとの接し方をずいぶん教えてもらったように思う。
また、明日の幼稚園の持ち物とか、今はやっている病気とか、小さなことから大きなことまで情報を共有したり、してもらったり。
幼稚園での生活にお母さんたちとの繋がりは欠かせないものだなと思うほどだ。

それなのに、私はお母さんたちのことをあまりよく知らない。
知っているのは、どの辺りの地域に住んでいるかとか、家族構成くらいのものだ。どんな仕事をしているのか(あるいはしていたのか)とか、専攻はなんだったのかとか、趣味はなんなのかとか、パーソナルなことはほとんどと言っていいほど知らないのだ。
もちろん、聞けば答えてくれるのだろうけれど、知らなくても互いに不都合はない。

子どもを想う気持ち、それだけを共通項にしてその場所にいる。
それだけで十分なのだ。

娘にとって、母という存在が大切なのは、それは血のつながりとか能力とか人格とかそんなことはなーんにも関係なくて、ただただ「いつも一緒にいる存在だから」という理由が大きいのではないだろうか。

そう考えると少しほっとする。
母になるのに能力やら人格やら肩書きや家柄なんかを問われたとしたら、いくら能天気な私でも絶望してしまいそうだ。

一緒にいてくれる。
それだけで十分、子どもにとっては特別なのだ。

子どもたちは理屈抜きで愛してくれて、甘えてくれる。
だから私も、「やったことがない」とか「自分には向いていない」とかそんな言い訳はしないで子どもに向き合っていきたい。

「ねえ、抱っこして」
「あーん、して」
それが天下の一大事のように、必死に訴えてくる娘。
その言葉の裏にはきっと甘えたい気持ちがあるのだろうなと思い、重い腰をなんとか持ち上げる。

甘えてもらえる人がいる、そんな不思議さと尊さを噛み締めながら。



娘の寝床

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