Introduction
きっかけ
私が自身の出身の埼玉県宮代町のまちづくりについての活動に表立って関わるきっかけとなったのは、2006年のまちの顔づくりプロジェクトだった。
今の庁舎ができる以前、進修館と社会福祉協議会の建物に並ぶ形で、役場の庁舎があった。
今の進修館の中庭がある場所に旧庁舎があったのだ。
そして、進修館の裏手に運動場があったのだが、その場所に新庁舎が新設された。
その後、旧庁舎が取り壊されて、その旧庁舎の跡地を市民参加の協議で使いみちを決めていこうといった内容が、まちの顔づくりプロジェクトであった。
私がこのプロジェクト参加のきっかけと動機の1つに、小中学校からの同級生からの誘いがあった。
動機
その同級生は大学院にて、建築と都市計画を研究分野としていた為、その様な行政の主催する住民参加型の活動や、行政の合意形成のプロセスについてへのアンテナがもともと高かったのだろう。
まさに自分の故郷である宮代町でそのような活動に参加できることに、彼はとても意欲を持っていた様に思う。
誘われた私は、そういった地域活動にもともと特別に興味があったとか、そういった話ではぜんぜんなく(もちろん地元は好きだったが...)、恥ずかしながら、浪人を経験したり、大学も人より1年余計に通っており(要するに留年)、これは良いチャンスだ、不甲斐ないダメ学生の私が、もし地元への貢献ができることなら、何でもやってみたいという思いがあったからで、世間体に対してマイナスからゼロへ持っていくための行動であったと思う。
という訳で、これがまちづくりの活動への入り口となった。
私の参加動機はお世辞にも誉められたものではなかった。
出会い
そのきっかけとなったみやしろの顔づくりプロジェクトについてだが、頻度は月1-2回程で平日夜に開催をされていたと記憶する。
私たちの様な20代の学生から、アラサーの働く世代の参加もあり、また担当職員も若手と言える30代の職員が多かった。
(発足当初は若手職員横串しのプロジェクトチームであったようだ)
40代の参加者もあり、50-60代の参加者がボリュームゾーンだったと思うが、70代の参加者、そして私の自宅の近所に住まわれていた80代女性の方も参加されていた事を思い出す。
(その方は毎度毎度、ご自宅から進修館まで歩いてご参加されていた事が記憶に残っている。)
参加者は総数40名弱ぐらいであっただろうか...。
今思えば、それなりにそこそこの多世代の有志による構成メンバーであった。
そして、新庁舎の市民活動スペース(今の子育て広場のある場所にあった)で開催される会議は、TEAM ZOO 鰐(わに)の平井秀一さんという建築家の方がファシリテーターとして、毎回会議を取り仕切って下さった。
TEAM ZOO 鰐は、進修館を設計した象設計集団のお仲間の建築家グループだという話だった。
(私は設計事務所の事に詳しくないので、ご興味ある方や詳しく知りたい方はご自身で調べて頂きたいのだが、確かゾウがはじまりで、ワニやイルカ等、動物を冠する設計事務所ができ始め、それらの動物を冠する仲間内の設計事務所をTEAM ZOOと名付けたようだ。)
顔プロの場合
顔プロデュース委員会の参加者は、年齢層も様々であったが、その人々のバックグラウンドも多種多様な人たちが多かった様に思う。
今にして思えば、町内の在野の活動家たちや各分野のリーダー人材が集まっていたと思う。
また行政の担当職員の方々もまちづくりに対してのこだわりと熱意のある人たちだった。
この場所で出会った方々が以後数年間、私が携わる事になる町での活動の強力な応援者になって下さる人たちでもあった。
話は逸れるが、多種多様な参加者がいたとは言え、今の私の経験をもとに1つ考察すると、地域の実業界や子育て家族や現役会社員の参加の割合が少なかったとも思わなくもない。
忙しい事業家や働き盛り世代の市民活動へ参加してもらう事は、今でも、もしかしたらどこの地域でも、課題なのだろう。
また忙しい人たちは、このような地域での行政主催の市民参加の活動に、恐らく自ら一定の心理的距離感を抱いている場合もあるのではないか。
話を戻して、会議について思った事は、これだけの人が集まったのに関わらず(または集まったからか)、話し合いのテーマに対して会議はいつも結論がバシッとでない。そして、バシッとでないまま終わる。
これはファシリテーターの平井さんの町民意見をくみ取る巧妙で高等な技術か何かなのかなぁ(しかしスッキリしない)、と当時の私は思っていたが、これは世間的にはワークショップにおけるファシリテーションの技法という事が、今になってようやく理解できるようになってきた。
平井さんは、早期に1つの大きな分かりやすい意見になろうとする流れを、例えばその意見に対抗しそうで、かつ説得力ある考えをあえて例示したりして、まとまる事を周到に、意識的に回避していた様に思う。
そして、今度は例示された逆の意見へ参加者がいっせいに流れれば、今度はまた違った切り口の対抗する意見を例示するなど、参加者はコネコネ、コネコネ終始こねられていた感じがする。
ふらふらとしかも長い航路に舵を取り、参加者が潜在的に持っているであろう素の意見がふと顔を覗かせるまでの遠回りしていたのだろうか。
推察すると恐らく、多様だけど大小声の大きさに差のある各々の参加者からの意見がなるべく個々から出てきやすい様に会議を進行し、より多くの声を聞き出しながら、それを生かしたまま、生きたままに設計に反映しようとしていたのだろう。
(当時の私の記憶をもとにした感覚からの感想の為、バイアスも多分にあるかもしれないが)
それともう1つ、この顔プロデュース委員会の委員の皆さんについての特色があるとすれば、会議中などの議場以外でも、人と人との関係性が参加者同士、それなりにフラットかつ自由な雰囲気であったことだと思う。
そして会議後には織ちゃん(役場近くのラーメン屋さん)に駆け込み、餃子と野菜炒めを肴にこれまでの会議の延長戦……などは全くせずに、また各々の町内での活動の話で盛り上がる。
そして夜が更けていく。(て言っても、22時ぐらいでお開きになりましたが。)
長くなってしまったが、これは私が体験した地域コミュニティの原点だと思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?