第三十四回 織田作之助『猫と杓子について』
「戦中・戦後作家」。そんな枠でこの人を捉えるのはあまりにも独創性に欠けるでしょう。
織田作之助『猫と杓子について』を取り上げました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46358_26691.html
「大阪」シリーズも熱くて今なお「新しい」ので、オススメです!
今回はやや変則的に関東からもリモートで参加していただいたので、
その方の感想を皮切りに。
ファッション文学は嫌いだ!
大学院で文学を専攻していたこの参加者。
周囲や教師が「文学っぽい・無駄に小難しい表現」
に固執している姿に辟易していたそう。
立場としては「反スノビズム」ということでしょうか。
藤田嗣治("Leonard Foujita")とエコール・ド・パリ
上記の感想から先日読んだ「藤田嗣治」の伝記にあったエピソードが思い出されました。
1920年代のパリ。
それは世界の文化・芸術の中心であり、
ウッディ・アレン監督『ミッドナイト・イン・パリ』で
描かれた黄金時代です。
藤田嗣治はそのパリ派、「エコール・ド・パリ」を代表する画家のひとりであったのですが、
その当時パリにいた他の日本人とは一線を画していました。
「西洋画」と出会ったばかりの日本人は、過去の巨匠を「お手本に」
忠実なコピーを試みたのでした。印象派のモネやマネ、果てはピカソをそのまんまに...。
また、「サムライ」の格好でパリを練り歩くような奇をてらった人物もいたようです。
ひるがえって藤田は「絵画に新たな1ページを」と誰の真似でもない、自分だけの独創を目指していたのです。
織田作之助がたびたび「大阪」と「青春」の象徴として取り上げる
無学文盲の棋士・坂田三吉とも重なります。
苦労ばかりかけた妻をなくしてようやく巡ってきた名人戦。絶対に負けられない大一番。そんな一世一代の場面ですら「定石」に頼らず、「将棋の可能性」を追求せずにいられない坂田。果たしてその勝敗は...。(織田作之助『可能性の文学』より)
大学院の同胞、コピー屋、「サムライ」...
要するにかたちを整えるのにこだわるのは単なる「ワナビー」だ、と。
一方、世界的に評価されているけど、日本だとイロモノ、みたいな例としては電気グルーヴやビートたけし(←いまは重鎮っぽい)もあげられます。
そういう意味では、ここはいまだに「猫と杓子の国」なのかな...。
POPについて
織田作之助の「敗戦の責任は衆愚だ」って、これはハンナ・アーレントの全体主義の分析とおそろしいほど一致していて興味深いのだけれど、ひとまず置きます。
衆愚、付和雷同、猫と杓子...これらと独創の違いは「新しさへの挑戦」である、と織田作之助は述べます。
で、わたし(主催)自身はたいへん疎いのですが、
JPOP界には中田ヤスタカなるプロデューサーがいるそうで、
年齢的には、もうそこそこ、なのですが、「きゃりーぱみゅぱみゅ」を
はじめ、常に若い世代の女性に響く楽曲をプロデュースしている。
「どうして若い人の共感が得られるのだろう?」
毎週、少年ジャンプを購読しながら「好きな作品」と「ヒットする作品」が年々乖離している気がするわたしのような人間にはやや切実な問いですが(苦笑)、
その源は「現場」に出ているから、みたいです。
たとえば「モード学園」のファッションショーを見に行ったり、楽曲を提供したり...学生さんとともに作り上げていくスタイル。
ちなみに、音楽に詳しい店主いわく「売れてるポップアーティストは結構ぶっとんでるキャラクターが多い」そう。つまり一般人のフォロワーが真似しちゃうとピカソのコピーみたいになってしまいそうですね。
新しさなんていらねーじゃん、への反論
「どうせ人間なんて変わるもんじゃないでしょ。歴史は繰り返す」
そう考えていた時期が、わたしにもありました。
しかし最近読んだ生物学の本で、「サボるアリ」についての言及がありました。
よく知られる話ですが、働きアリの集団には2割、サボる連中がいる。
その2割でチームをつくると、そのうちの8割は働き始める。
ということはやっぱり2割はサボっているのです。
「なんのためか?」
たとえば緊急事態発生時の遊撃隊として。
例えば100パー稼働の工場で火事が発生したとする。
何人かが対処に駆けつければラインはストップしてしまう。
また、長期的な視点に立つと、
全員がずーっと同じ仕事するよりも、2割がサボりながら新しいことを試みるほうが「集団」や「社会」として強いのでしょう。
Googleの就業時間の2割は自由に使える、みたいなのも、
このような「科学的視座」によるものでしょう。
なんとなくの福利厚生、みたいな甘いもんじゃなさそう。
ひるがえって我が身。
1日中、根詰めて、目の前のことにかかりきりになっていると、
やっぱり視野が狭くなってしまうな、と感じてしまいます。
戦略的な「余白」と「遊び」。
人類全体にとっての「芸術」とはそういうものなのかもしれません。
日本の新しい文学
いろいろあるんでしょうけど、個人的には『バトル・ロワイアル』です。
「中学の修学旅行でクラスメイト同士が殺し合いをさせられる」という筋は、
いま考えると凄いメタファーだな、と。
クラスメイトとは、
「ふだんは仲良くするよう推奨されているが、社会的に・ドライに見れば、競争相手である」
という現実をグロテスクなまでに誇張し、
中学生の年頃の漠然とした不安や恐怖、
潜在的な暴力への憧れを煽る...。
デスゲームジャンルの華やかなる(?)現在でも、
「ヤバいもの読んでるな」という感覚、
この原典を超えるものはなかなか出てこないのでは?
と思わされます。