感覚の中で見えること

何とか月一本くらいのペースで記事を書いていきたいと思いながら、気付けば結構時間が経っている・・・。私としてはよくあることだけど、よくあることじゃだめだなと反省。
別に決めたことでも、誰かと約束したことでもないから、自分がOKならペースなんて気にしなくていいんだけど、なんとなくやろうと思ったことはきちんとやっておかないと自分がぶれる気がするんです。上手に自分を信じられなくなるというか。
てことで、またぼちぼちと大体月1本くらいのペースで何か思うこととかを書いていきたい。

さて、今日書こうと思ったのは、今年一年の中での自分の変化についてです。
あくまでも自分についてなので、周りの人からすれば、変わってないように見るかもしれないし、また別の変化をしているように見えるかもしれませんが、自覚のある変化というか、変化を自覚したというか、あるいは自分の性質を自覚したというか、まぁそんな感じです。

これまでは、物事を考えたり、観察したり、表現したりするときは、論理的であることを第一に行ってきました。誰かに伝えやすいようにというのもあるし、自分なりに整理しやすいように、というのもある。
感覚的なことを論理的に理解していると自分では思っていたんだけど、どうも感覚や感性の部分に引っ張られる感があった。うまく表現できない部分ではあるんだけど、頭では客観的に理解できているのに、心がざわつくというか、落ち着かないというか。

そんなある日、一緒に仕事をしている仲間から、私がすごく感性で物事を受け止めててしんどくないですか?って聞かれることがあったわけだ。
自分なりには正直びっくりしたし、感覚を理論的にっていう部分が自分の思う以上にできてない代わりに、感覚的にそのまま受け取ってるんだということに気づいたんです。
前々から自分としても感覚的理解という言葉は使っていたし、自分もそういうものごとの理解の仕方をしているようには思っていたけど、そこに理論化するという流れを踏んでいるものと思っていたんです。
しかし、どうもそれは、そう思っていただけで、感覚で、感性で理解していたようです。だから他人の感情や感覚の波を思いっきり真正面から受け止めて、結構影響出たりしてたってことで・・・。そら、しんどくないかって聞かれるわなっていう話です。

そして、この自覚をしたことで、もう逆に開き直って感覚的理解全開でいこうと思ったわけなんですが、ここで一つの変化が現れるんです。
現れたという表現には語弊があるんですが、前々から人と話したりしている時に、その人の周りにもやというか霧というか、そういうのを感じるときがあったんです。ただ、私、眼鏡なもので、しかも疲れ目になりやすいので、なんか目の調子が悪いという風にしか思っていなかったんですが、感覚を研ぎ澄まして人と接することで、このもやのような何かが結構しっかりと目に入るようになったんです。
ここ、見えるではなく、目に入る、が結構重要。見ようとして見ると見えないんだけど、話をしたりしているとふわっと色が目に入るんです。感覚のことなので、ふわっとという表現しかできません(笑)ひょっとしたらオーラ的なものかもしれない。
でも私なりにはオーラとはまたちょっと違うものだと思ってます。というのも、オーラって本人の中から湧き出すものだと思うんですが、私に見えるのはそうじゃなくて、本人とともにある空気の層みたいな感じなんです。まとっているという意味ではオーラと同じようなものだとは思うんですが、なんか私の感覚的にオーラではないと思ってます。まぁそこはどっちでもいい話ではあるんですが。

で、この色の空気のようなものって人それぞれで全然違っていて、色の濃淡、明暗、透過具合など、もうバラバラなんですよ。そしてそれに加えて、二つの色がある人、単色の人、色がない人という違いもあるんです。
二色の見える人は、比較的よく話す、距離感の近い人なので、おそらくは私の感覚が感じられる部分が多い人なんだと思います。
ややこしいのが単色の人で、距離感や私の感覚の影響で、単色に見えるのか、それともその人自身が単色なのかの区別がつかないのです。もうちょっといろいろ掘り下げればわかるようにはなりそうだけど、今のところ確信をもって単色の人だと言い切れるのは数人しかいないって感じです。
そして、一番謎なのが、色のない人。色の気配がしないという表現が正しいかもしれません。そうそう、この気配、単色の人でも感じることがって、そういう人はきっと見えていないもう一つの色があるんだろうなとか、そういう代物です。
で、色のない人は、そういう気配が全く感じられないんです。私の修業不足によるものの可能性は否めませんし、色がないことが悪いということではないと思います。
ただ、私としてはその人を感覚的に理解できないということでもあるということかなと思っています。実際に話していても物事の見方や考え方が違いすぎて理解できないって感じる相手でもあるので。

こういう変化が起こったわけで、好奇心旺盛な私としては、いろいろ分析をするわけです。
まず、三色以上はないのかということ。これは今のところ、見たことはないという答えになってます。おそらくは陰陽的なもので、裏と表、あるいは中と外のようなものではないかと。陰と陽もそうだけど、どっちがいいとか、どっちが本当とかそういう話ではなく、両方ともその人のものであり、その人自身。これが三つになるとなんかいろんなバランスが変わるのではないかと思ってます。
色は絶対的なものかというとそうでもないようで、二色の構成が変わったり、混ざったりしている時もある様子。ただ、混ざっていても完全に混ざった色になっているわけではなく、ゆるーいマーブルな感じなので二色であることに変わりはないようです。
次に単色の人のもう一つの色の気配について。これはもっと感覚的な話になるんだけど、スーパーマリオの土管のような感覚なんです。何が言いたいかというとスーパーマリオの土管って入れるじゃないですか。土管のないただの地面には入れません。つまり土管があるということは入れるかもしれないという可能性の示唆でもあるわけです。
単色の人の色の気配って雑に言えば、土管が見えているような状態なんです。ただ、その土管が入れるものなのかどうかは土管の上でしゃがまないと分からないのと同じで、もう一つの色がありそうな気配はあるが・・・という感じです。
この例えで良かったんだろうかという疑問はあるけど、はっきりと単色だと言い切れる人にはこの気配がないから、たぶんこういうことであってるんだと思います。
なぜ見えないのかは、距離感とか感覚的な相違とか本人の意思とかいろいろ理由がありそう。
この辺はもう少し研究が必要なところだと思ってます。

色が変わることもあるので、単色の人が二色になったり、二色の人が単色になったりすることもあるんだと思ってます。

ただ、色のない人。これが本当に分からん。透明というわけでもないんです。透明って色はないけど色の気配はあるから。先に書いた通り透過度や濃淡によっては色として認識できないってこともあるんです。ただ、確かにそこに色はあるんです。
でも色がない人って色の気配が全くないんです。結構レアキャラなので、観察したり比較したりできないから、分析が進んでなくて、上手く理解できてないんだけど、いったい何なのだろうかという大きな疑問の種ではある。
そして、鶏か卵かって話のように、そういう人は感覚的に理解できないので、結構苦手(笑)
ただ、別に機械的なわけでもないし、ちゃんと有機的な感覚はあるわけで・・・。まぁよく分からんという答えで今は良いと思ってます。

ちなみに、こういうことを書くと、私は何色かという質問が出てきそうだけど、まず見るつもりになって見えるものではないので、パッと見てわかるものではないです。すでに見えている人のは伝えることはできますが、私が色の名前を全然知らないので、それこそ感覚的な表現でしか伝えられません(例:少し透明な白よりの薄めの黄色でちょっと暗い、赤と緑の間で少しみどりよりの濃い感じなど)。
そして、その色がもつ意味や理由なんてものはさっぱり分かりません。おそらくは私の持っている色のイメージの影響もあると思うので、色診断とかそういうののイメージとは違っていると思います。
そんなこんなで正確性は全くないですが、それでも良ければ聞いてみてください。
でも距離感のある人の色は全然わからんので、結局ある程度話をせんといかんのだけどね。

こうやって考えると自分なりには相手を理解する上で便利なものを見つけたと思ってるけど、自分以外の人の役に立つ代物ではないのかしれないね。
まさにそれが私っぽくていい!言うまでもなく私はそれで満足です(笑)

ちなみに今回この記事を書いたのは、私にとっては色ですが、きっと皆さんにも何かあると思います、ということを言いたかったからです。
香りや音のように、目以外の感覚器で感じるものもあるだろうし、温度や湿度といったもので感じることもあると思います。
人は感覚の生き物なので、是非皆さんも自分の感性のアンテナを全開にしてみてください。おそらくはこの感覚的理解が次の時代の鍵になってくると思います。
何かスピリチュアルな導き手みたいな書き方になってるけど、そういうのではなくて、おもろいからみんなもやってみ!って感じで、それが広がればおもろい世界になるやろうなってことでしかないです(笑)

一年を振り返って、言いたいことがこれだったことについては自分なりには納得できてるから、書ききって大満足です。

また何か書くかもしれないけど、ひとまず、よい年の瀬を!

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