【物語】二人称の愛(下) :カウンセリング【Session68】
※前回の話はこちら
■2016年(平成28年)09月08日(Thu)
今日は久しぶりに彩とのカウンセリングが入っていた。学は彩とのカウンセリングを、彩に前回のカウンセリングで説明した「催眠表現療法」で行うことに決めていたのだ。そして学がカウンセリングルームの時計に眼をやると、彩と約束している時間の15時に時計の針が近づいていることを確認することができたのである。それと同時にマンション1Fロビーのチャイムの呼び出し音の鳴る音が、カウンセリングルーム全体に鳴り響いた。学は深呼吸を一度し気持ちを落ち着け、その呼び出し音に反応し、インターフォンの相手を確認した。すると明るい柔らかな声が聴こえてきたのだった。
木下彩:「こんにちは木下です。カウンセリングを受けに来ました」
倉田学:「こんにちは彩さん。お待ちしていました。いま、玄関ロビーを開けますね」
木下彩:「はい。宜しくお願いします」
こうして学は、彩が7階にある学のカウンセリングルームにエレベーターで昇ってくるのを待っていた。この時、学は彩ともうひとりの人格である綾瀬ひとみのことをこんなふうに考えていたのだ。
倉田学:「彩さんと一緒にやった『スクイグル物語法』を、彩さんのもうひとりの人格であるひとみさんは受け入れてくれるだろうか」
こんなことを学が考えていると、彩は直ぐに学のカウンセリングルームへとやって来た。そしてこんな挨拶を交わした。
木下彩:「こんにちは倉田さん。お久しぶりです」
倉田学:「こんにちは彩さん。そう言えば前回のカウンセリングから、少し時間が空いてしまいましたね」
木下彩:「ええぇ。それに倉田さん、忙しいみたいだし。せっかく先月のお盆、わたしの誕生日パーティーに誘ったのに」
倉田学:「すいません。あの時は東北の方へ行っていたので」
木下彩:「でも、わたしの年齢を当てることが出来たから許してあげる。その代わりに今度、前に約束したデートに付き合って貰いますからね」
倉田学:「おっかしいなぁー。僕、そんな約束しましたっけ!?」
木下彩:「倉田さん、誤魔化さないでくださいよ。倉田さんは、みずきさんとデートしましたよねぇ? その時のことを思いだしてくださいよ」
学はみずきと六本木で、「君の名は。」の映画の試写会を一緒に観に行き、デートした時のことを思い起こしていた。その時ふと、今日のお昼に掛かって来た一樹からの電話のことを思い出したのである。そして学と彩と一樹で、池袋にある「白龍門」と言う中華料理店で、三人で食事した時の出来事が頭をよぎった。その時の会話で、学と彩はこんな会話をしていたと思う。
<回想>
木下彩:「倉田さん。わたし倉田さんと映画を観に行きたいです。駄目ですか?」
倉田学:「そんなこと全然ないです。観たい映画とかありますか?」
木下彩:「『君の名は。』」
こんなやり取りが、学と彩の間で交わされていたのだ。学は自分の記憶を辿ることが出来たが、彩には知らないふりをした。それは、学の中にあるカウンセラーとして中立性を保ちたいと言う思いが働いたのと、彩の中にあるもうひとりの人格の綾瀬ひとみに警戒心を抱いていたからだ。だから学は彩に、こんな言葉を返した。
倉田学:「彩さん。僕は彩さんとデートの約束はしていないと思いますが・・・」
木下彩:「倉田さん、わかりました。では、外でのカウンセリングならいいんでしょ!」
この彩の巧みな切り返しに学は戸惑い。そして今までの彩だったらと考えると、彩の中のもうひとりの人格であるひとみが、次第に彩の外へと殻を割って出てきて、人格もひとみの持つ「計算高くかつ大胆」と言ったものが滲み出てきているように感じられた。
そして何より学自身、自分の手で木下彩の「明朗でおしとやか」な人格を、綾瀬ひとみの「計算高くかつ大胆」と言うものに変えて行くことに対して、心苦しい部分が大きく、本当に自分のやっているカウンセリングが正しいのかと言う罪悪感に苛まれていたのだ。
そこには既に、いちカウンセラーとしての感情より、学自身の感情の方が大きかったのかも知れない。その大きくなって行く原因はおそらく、学の彩に対する感情の中に、彼女に対する好意があったからだろう。そんな感情を学は押し殺しながら、彩とのカウンセリングをスタートさせた。
倉田学:「それでは彩さん。前回説明したように、もうひとりの人格の綾瀬ひとみさんに出てきて貰い、そのひとみさんに『スクイグル物語法』をやって貰いますね。宜しいでしょうか?」
木下彩:「はい。宜しくお願いします」
こうして学は彩に、まず最初に「催眠療法」を行い、そして木下彩のもうひとりの人格である綾瀬ひとみを呼び出したのだ。それから学はこう声を掛けた。
倉田学:「あなたの名前を教えてください」
綾瀬ひとみ:「せんせ! 久しぶりじゃない」
倉田学:「僕は先生では無いですから」
綾瀬ひとみ:「あら、せんせ! わたし別に、あなたのこと先生なんて思ってませんよ。せんせ!」
倉田学:「では何故。せんせ、と?」
綾瀬ひとみ:「あだ名かしら。それが嫌ならオタクでもヲタクでもいいんですけど。ホォーホォホォホォホォホォ」
このひとみの言葉を聴いた学は、これ以上この件について話しても無駄だと思い、早速本題の「スクイグル物語法」の説明をすることにした。
倉田学:「ひとみさん。前回のカウンセリングで、もうひとりの人格の彩さんと話したのですが、彩さんとひとみさんをひとりの人格に統合させるのに、『スクイグル物語法』と言う心理療法をひとみさんに行ってみたいと思っているのですが、いかがでしょうか?」
綾瀬ひとみ:「その『スクイグル物語法』って何よ」
倉田学:「彩さんにも説明しましたが、簡単に言うと紙の三つのマスにペンで一筆書きで絵を描いて頂きます。それをひとみさんと僕で交互にペンとクレヨンを使って描き、そして描いた絵にタイトル(名詞)をそれぞれ付けて、三つのタイトル(名詞)を使って物語を作ると言うものです。どうでしょうか、ひとみさん?」
学の説明を聴いていたひとみは、少し気に食わない様子で、学の顔をジィーっと見つめていたのだ。そして啖呵を切ったかのように、学に向かってこう言ったのである。
綾瀬ひとみ:「せんせ! さっきから彩、彩って! このカウンセリング受けるのわたしじゃない。彩より先に、わたしに説明しなさいよ」
倉田学:「カウンセリングの依頼を受けたのは彩さんからですから」
綾瀬ひとみ:「あら、そおー。じゃあ、わたしがお願いしたわけじゃないんだから。別にわたしが協力する必要もないわねぇー」
倉田学:「ひとみさん。そんなこと言っていいんですか? ひとみさんと彩さんは、ふたりでひとりなんですよ」
綾瀬ひとみ:「あらぁー、せんせ! 最近、もうひとりの彩のこと木下さんじゃなくて彩って呼んでるわねぇー。どう言う心境の変化かしら」
学はひとみの鋭いツッコミにドキッとした。確かに学は、彩と一樹の三人で食事をして以来、彩のことを下の名前で呼ぶようになった。そしてそれが更に学と彩の距離を縮める要因になったのは間違いないだろう。今まで学は、クライエントのことを下の名前で呼ぶことが無かったからだ。
言葉は、人間が獲得して来た情報伝達の中でも、最も歴史的に見れば新しい獲得情報にあたるだろう。言語情報(バーバル・コミュニケーション)が発達する前は、非言語情報(ノンバーバル・コミュニケーション)と言った言葉以外の表情や身振りなどを使って我々はコミュニケーションを行ってきた。だが文明の発達と共に我々は言語情報を獲得し、また文字情報も後に獲得していった。そしてネット社会の現在、今や世界に向けて簡単に誰もが情報を発信できる。その言語情報の中でも、世界で一番使われているのが英語だ。言葉にしても文字情報としても、これだけ世界的に使われるのか考えてみると、おそらくとてもシンプルだからだろう。
シンプルな情報故に、誤った使い方やニュアンスの違い、また軽はずみな言葉は時としてとても危険である。また言葉の暴力は戦争にまで発展しかねない。学はカウンセリングを勉強して、言葉の大切さと怖さを思い知らされてきた。それは人間を司るのに、言語情報が物凄く影響を与えているからではないだろうか。
だから学が、ひとみから彩の件で指摘されたとき、学自身の中の彩に対する思いをひとみに見透かされてしまったのではないかと言う焦りがあった。そして、学はそのことを誤魔化そうと、ひとみにこう言ったのだ。
倉田学:「ひとみさん。僕はひとみさんがあやさんと統合すれば、今より更に素敵な女性になると思うんです。そう思いませんか?」
綾瀬ひとみ:「せんせ! あなたって、おかしなひと。本当にそう思ってるのかしら?」
倉田学:「僕はふたりが統合して、ふたりの良いところが一緒になればと」
綾瀬ひとみ:「せんせ、わたし知ってるの。せんせが、もうひとりの人格の彩のことを好きなことを」
倉田学:「僕はそんなこと、一度も言ったことありませんが」
綾瀬ひとみ:「ふーん。確か、のぞみとか言う女が、別にいいんだけど」
倉田学:「その、のぞみさんって。そのひと何か言ってましたか?」
綾瀬ひとみ:「せんせ、もういいわよ。その『スクイグル物語法』とやらをやりましょ!」
倉田学:「そうですか。わかりました。いま準備しますね」
こうして学とひとみによる「スクイグル物語法」が始まった。学が「スクイグル物語法」の準備をしている最中、ひとみはこころの中でこう呟いていた。
綾瀬ひとみ:「わたしはわたし。ふたりでひとりではない。わたしがわたしになるの」
そんなことをひとみは自分に言い聞かせ、学とひとみによる「スクイグル物語法」は始まった。ひとみは学との「スクイグル物語法」を通して、こんな物語を完成させたのだ。その物語となる三つの絵のタイトル(名詞)は、このようなものであった。「ウサギ」「カエル」「ヘビ」である。そしてこんな物語をひとみは話した。
倉田学:「それではひとみさん。いま挙げた三つのタイトル(名詞)を使って物語を作ってみてください」
綾瀬ひとみ:「ある日、『ウサギ』が遊んでた。そこに『ヘビ』が現れて、『ウサギ』に襲いかかろうとした。その様子を近くで観ていた『カエル』は動くことが出来ず、その『ヘビ』によって『ウサギ』と『カエル』は食べられた」
このひとみの物語を聴いた学は一瞬固まり、恐怖に慄いたのだ。学はこのひとみに行った「スクイグル物語法」を精神分析の目的で行った訳では無かったが、とても危険性の高い結果であると瞬時に感じたのだ。そしてこの結果について、幾つか学はひとみに質問を投げ掛けた。
倉田学:「少し質問してもいいでしょうか?」
綾瀬ひとみ:「ええぇ」
倉田学:「この話は今考えた話ですか?」
綾瀬ひとみ:「ええぇ、そうよ」
倉田学:「それでは、この三つのタイトル(名詞)は誰かを表しているのでしょうか?」
綾瀬ひとみ:「そうねー。そう言えば」
倉田学:「そう言えば何でしょうか? ひとみさん」
綾瀬ひとみ:「せんせ! 教えなーい」
倉田学:「これはカウンセリングでとても重要なことです。教えて頂けないでしょうか?」
綾瀬ひとみ:「プライバシーの侵害じゃない。カウンセリングをお願いしたのはわたしじゃないし。彩なんだから彩から訊いたら。せんせ、彩のことお気に入りみたいだし」
倉田学:「・・・・・・」
しばらく学は沈黙していた。その後、ゆっくりとした口調でひとみにこう語り掛けた。
倉田学:「あくまで僕の想像だけど、ひとみさん。あなたはもうひとりの人格の彩さんとひとつの人格になり、自分だけの人格になろうとしていますよね」
綾瀬ひとみ:「それはどうかしら? カウンセラーってこころ読めないんでしょ!」
学は内心、ひとみが彩の人格を呑み込み、自分だけのひとつの人格を手に入れようとしていることが、この「スクイグル物語法」を通してわかった。そして「ウサギ」が彩だとすると「ヘビ」はひとみだ。では「カエル」が誰に当たるのか考えてみた。すると恐らく自分のことを表しているように感じてならなかった。つまりだ、学と言う「カエル」がひとみと言う「ヘビ」に睨まれ、そして彩と言う「ウサギ」が「ヘビ」のひとみに襲われる状況を目の当たりにし、それに対し「カエル」である学は何の抵抗も出来ないことを意味しているように感じたからだ。
これを阻止するべく、学なりに今後どのようにカウンセリングを進めるか頭の中を巡らした。しかしこの時の学には、良い案が思いつかなかったのだ。そんなことを考えていると、彩とのカウンセリングの時間も終わりに近づいて来た。学はひとみに何時ものように「催眠療法」を行い、そして人格を綾瀬ひとみから木下彩へと戻しこう言った。
倉田学:「あなたの名前を教えてください」
木下彩:「木下彩です」
倉田学:「あなたは本当に彩さんですか?」
木下彩:「どうしたんですか倉田さん。わたし嘘ついていませんよ。前みたいに」
倉田学:「そうですか。それは良かった」
木下彩:「どうしたんですか倉田さん。今日の倉田さん、ちょっと変ですよ」
学のこころの中は、内心ホットしていた。それはもうひとりの人格の綾瀬ひとみから木下彩の人格に戻らないのではないかと思ったからだ。それ程、ひとみと言う人格の存在感が増して来ているように感じられた。そのことを振り返りながら、今、目の前にいる彩の「表情」「仕草」「化粧」そして「雰囲気」を感じ取っていくと、先程まで一緒にいたひとみの面影を、少し感じ取ることが学には出来た。息をすぅーっと吸って、一度深呼吸してから再び彩に語り掛けたのである。
倉田学:「彩さん。体調はどうでしょうか?」
木下彩:「倉田さん。今日の倉田さん、本当にちょっと変ですよ。ひとみとのカウンセリングで何かありましたか?」
この彩からの質問に、学は何と答えようか少し悩んだ。そして丁寧に言葉を選びながら説明をした。
倉田学:「彩さんのもうひとりの人格のひとみさんと、『スクイグル物語法』を行いました」
すると早速、彩はその結果を知りたくて学の説明している会話に割って入って来たのだ。
木下彩:「それで、もうひとりの人格のひとみの物語はどうでしたか?」
倉田学:「そうですねぇー。とても特徴的な物語でしたよ」
木下彩:「わたしが知りたいのは、そのひとみの物語のストーリーなんです。どんなストーリーか教えてください」
この彩の質問に対して、学は話すことが出来なかった。それはひとみの物語のストーリーを話すと、そのストーリーの解釈を求められる可能性が高いと、学は想像出来たからだ。そして学がひとみから語ってもらった物語のストーリーの解釈を学がしてしまうと、おそらく彩は驚き傷つくことが想像できたからであった。だから学は言葉を慎重に選び、こう彩に説明した。
倉田学:「これは僕とひとみさんの間で行ったカウンセリングです。だから、ひとみさんが了承しないと教えられないのです。すいません」
学はこの時、少し嘘を付いた。それはひとみと守秘義務など取り交わしてはいなかったからだ。しかしカウンセラーは時として、クライエントを陥れたり、不幸にさせる可能性がある場合、例えクライエントからの依頼だと言えど、言えないこともある。つまりクライエントの辛さを、カウンセラーはある程度は重荷として背負う覚悟がないと、心理カウンセラーをするべきではないと学は思っていたからだ。
そのぐらいカウンセラーと言うのはある意味、孤独なものでもあり、軽はずみな言葉や気休めな言葉は返って、クライエントを最終的に不幸に陥れる可能性があるんじゃないかと学は思っていた。それはこころを科学する精神分析の分野では尚更である。その結果次第で、クライエントを苦しめる可能性があるのだから。だから学は、こころを科学する精神分析はあまり好きではなかったのだ。
学のこの言葉を聴いた彩はと言うと、少し残念そうな表情を浮かべていた。こうして学と彩のカウンセリングは終わろうとしていた。
木下彩:「倉田さん。今日の倉田さん何時もと違ってちょっと変ですよ。もうひとりの人格のひとみと何かあったんでしょ! だって倉田さん、嘘つくの下手だから」
倉田 学:「・・・・・・」
学はこの彩の質問に何も答えなかった。しばらく二人は沈黙と静寂の時間を共にしたのだ。その間、彩は寂しそうな表情をしていた。学はと言うと、彩に対して申し訳ない気持ちであった。それは、いちクライエントとしての彩に対する感情なのか、それもと学自身が彩のことを思う感情なのか定かではなかったからだ。おそらく学のこころの中にある彩に対する感情は大きく膨らんで、それは風船のように張り裂けんばかりに膨らんでいったに違いない。そんな心苦しい思いに苛まれながら、学が少しうつ向いていると、彩からこんな言葉を掛けられた。
木下彩:「わたしこの後、じゅん子ママのお店で仕事なんです。倉田さん、何か予定はありますか?」
倉田学:「僕ですか! 実は、美山みずきさんのお店に」
木下彩:「そうなんですね。倉田さん、一緒に銀座に行きましょう」
倉田学:「はい。僕で良ければ」
木下彩:「何か今日の倉田さん、元気ないですよ」
倉田学:「そうですか。何時もの僕だと思いますが」
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