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高気密高断熱の。

父が60歳になり定年退職した。

一大事だ。

一大事? 定年まで勤めあげてめでたいじゃない、お父さんお疲れさま~。とお思いになるかもしれないが、こちらにはのほほんとはしていられない事情がある。

退職祝いの宴である。

退職する人間が自ら会場を借り同僚後輩知人親戚をもてなす。
父の職場の独特な慣習だ。

この宴は、縁故のあるひとたちに「3月〇日にどこそこで退職祝いをやります」とだけ伝えておき、来たいひとが来れる時間にきて好きに帰っていくというシステムになっている。

なので事前にどれくらいのひとが会場に来てくれるかは分からない。人望のあるひとには多く集まり、そうではないひとのところは閑散とするという恐怖のイベントなのだ。嫌だ。私だったら絶対にやりたくない。

これのために、退職者の家族は会場の手配、手土産の用意、当日のお手伝いさん集めなどなど、何か月も前から準備に奔走させられる。我が家の話題も退職祝いのことでもちきりになり、母はもうずっとキリキリとしていた。

しかしながら当の本人はというと、いたってわくわくとその日を心待ちにしていたようだ。メンタルが強いわ。

そんなこんなで迎えた当日。

さいわい、宴がはじまるとかなりのひとが父の退職祝いに来てくれた。

さて私の仕事は「主役の子供」として来客の皆様にお酌をしてまわることであった。来てくれた顔をまずは把握していく。

えらいヨボついてるなと思った老人が親戚のなんとかおじさんだったり、子供のころに会ったことのある父の同僚の方はもうみんな貫禄がついていたり、知らないひとかもと思いきや「あぁあのひとだ」となるのは、懐かしさと時の流れを感じさせられた。

なかにはほんとうに見たことない顔もあり、そういうのは比較的若い年頃の方は職場の部下の方、年配の方はどこかのお偉いさんと大方分類できた。

そうと分かればあとはそれぞれに応じた振る舞いでお酌にまわる。

「おぉ~〇〇ちゃん! おじさんのこと覚えてたか~? ほれ、ちっちぇえとき会ったごとあるど~?」
はい、覚えていましたよ~。おじさんお元気でしたか~。

「あれっ? 〇〇ちゃん? おっきくなったねぇ、って当たり前か。お父さんにはお世話になってたよ~」
はい、もう30歳も過ぎちゃって、すっかり大きいです。父がお世話になりました。

「あ、娘さんですか? どうもはじめまして、お父さんと同じ課だった××です。お父さんにはお世話になりました」
同じ課だったんですね。こちらこそお世話になりましてありがとうございます。父がご迷惑お掛けしなかったですか。

よし。なかなか上出来ではないか。懐かしいひとと話すのも、はじめてのひとと話すのも案外楽しい。

空になったビール瓶を取り換えつつ、会場をぐるりと見渡した。盛り上がってる席はそのままにして、ぽつねんとしているひとのところをまわろう。

長テーブルの端に、ひとり背中をまるめてグラスを持つ男性がいた。

「どうも、長女の〇〇です。今日はありがとうございます、ビールで大丈夫ですか?」

男性は大丈夫です大丈夫ですとグラスをこちらに向けながら、私の顔を見て懐かしそうに微笑んだ。

「〇〇ちゃん、おじさんのこと覚えてるかな?」

一瞬男性の顔を見て止まった。覚えていない。誰だろう?

男性はやはり微笑みながら、覚えていないよなぁそりぁなぁと注がれたビールを手元に寄せた。

「僕はお父さんのお友達でね、お宅のお家を建てたんですよ」


小さいころ私の家はとても古かった。
台所はひどく寒かったし、二階へあがる階段は恐ろしい勾配をしていたし、家じゅうがどこも薄暗かった。

長い縁側の廊下の木枠の窓にはすりガラスがはめられていた。夜になると窓を合わせて小さい棒状の鍵を穴にくるくると差し込んで施錠する。
そうやってぴっちりと鍵をかけても、冬の朝などは合わせた窓の隙間から雪が入り込み茶色い廊下に白の縞模様を作っていた。「雪がはいってる~」と興奮して、小さい私はその白の模様を踏まないようにぴょんぴょんと跳ねながら居間に向かった。
空気も床も足の裏もひんやりとして目が覚めた。

私が小学6年生のとき、いよいよ嫌気のさした母の強い要望で、その家を建て替えることになった。そうして我が家にやってきたのが、父の高校時代の友人だという建築士のおじさんだった。

背がちいさくほっそりとして眼鏡をかけたおじさんは、いつもにこにこしていた。
頭が良くてね一級建築士なんだよ、と母に教えられたが、なるほどたしかににこにこしつつも肝は心得ている、というかんじのするひとだった。

我が家の敷地は両脇を民家にはさまれた極端に細長い土地のうえ、当時祖母曾祖母も同居する大家族だったので設計はむずかしかったと思う。しかし、その建築士のおじさんは我が家のために見事な図面を引いてくれた。

そして間取りよりもさらに重要なポイントなのが、これから建てる家が「高気密高断熱」であることだった。

「高気密高断熱というのは、あたらしい家づくりの考え方でね、いまはまだこのへんでは多くないけどいまに主流になるものなんですよ。冬の寒さがまるっきり違いますよ。ストーブ一台で家じゅうを温められるんです。建てるときにはそのぶん予算はかかっても絶対に高気密高断熱にした方がいいんです。」

おじさんはことあるごとに高気密高断熱の性能のすばらしさを語っていた。

やがて我が家はあたらしく暖かい家に建て替えられた。
もう冬に雪の縞模様をよけて歩くことはなくなった。


「覚えています、その節はありがとうございました。ほんとにおかげさまで」

思い出してみれば、建築士のおじさんは当時の面影が残っている。小柄な体をもっとコンパクトにするような座り方も、にこにこが絶えない柔和なメガネ顔も、あのころのままな気がする。するとおじさんが、微笑んだままでぐっと身を乗り出した。

「あなたの家はね、高気密高断熱という技術が使われているんですよ。」

とても重要で、興味深い話題である、というかんじの言い方だった。

「高気密高断熱というのは、ほんとうにすばらしい性能でね。」

「ぜひね、これから家を建てるときには、ぜひ、高気密高断熱の家にしてほしいんです。」

高気密。
高断熱。

父の退職についてとか、私の現在とか、おじさんが今どのようにお仕事をしているかとか、おじさんと父はいまも会う機会があるのかだとか、そういうその日何度も繰り返された話題はあがらずに、ただそこには「高気密高断熱」というワードとおじさんの熱意だけがあった。

にわかに会場がざわつき来賓の到着を知らせていた。思いがけないおじさんの熱意にあてられていた私がこれさいわいと「あ、それではゆっくりしていってください」などと席を離れようとしたところ、おじさんはにこにこの顔はそのままで、でも、今後もう二度と会えないひとにこれだけは最後に伝えたいというような必死さで、

「ぜひ、高気密高断熱にしてくださいね。」

と言うのだった。


忙しかった退職祝いの宴は無事に終わった。
大量に用意した手土産はそんなに残らずにすみ、お祝いでいただいたお酒は酒屋かと思うほどの本数になり、会場となった寿司屋からは後日目玉が飛び出るほどの請求書が届いた。ともかく主役の父は終始満足気だったのでよかったと思う。

「高気密高断熱」

あの日はたくさんのひとと話したけれど、おじさんのあの言葉だけがぽつんと残った。

高気密高断熱って、いまはそんなに珍しくはないよ。性能の優劣はそれはあるかと思うけど、住宅メーカーをまわるとほとんどの会社が当たり前のようにパンフレットに書いてるし。むしろこれから家を建てるとして、気密性の低い家になることの方が珍しいような。

内心そう思った。
でもそういうことは、おじさんには言えなかった。

おじさんの仕事の話はきかなかったけれど、おじさんはおそらく、ずっと高気密高断熱の家を設計し続けてきたのだろう。
それが目に見たように、わかる。
「高気密高断熱」へのこだわり、「高気密高断熱」であることの正義、「高気密高断熱」の希少性、そういったものたちが、おじさんのなかで、20年前に家を建てたころのままぴっちりと密閉されてそのままの純度を保っているというかんじがした。

あまりにも純度が高くてあまりにも熱かった。

高気密高断熱そのものに、会ったみたいだった。

そのひとの仕事は、そのひと自身をつくるのかもしれない。
仕事は仕事、プライベートはプライベート、と思っているようで、私にもきっとどこかに仕事の成分が混ざっているのだろう。

朝に雪が積もるような廊下も、嫌いじゃなかったんだ。
そういうこともやっぱり、おじさんには言えなかったなと思う。



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