- 運営しているクリエイター
2016年5月の記事一覧
すべての肉親と離れた事が一ばん、つらかった〜太宰治『待つ』について 第十三回
太宰治の“喪失感”。今回は主に“分家除籍”に着目しながら論じていきたい。
太宰さんは昭和5年(1930)に最初の妻である初代さんとの結婚の際、その条件の一つとして、長兄・文治さんから“分家除籍”を言い渡される。現代おいては結婚して家を出れば“分家”となるのは当たり前のことのようにも思える。だが、どうやら、このことは意外に太宰さんにとっては重大なことであったようなのだ。
この点について、相馬正
少女の喪失〜太宰治「待つ」について 第十四回
前回は太宰さん自身の“喪失感”について論じたわけであるが、今回は本作『待つ』の少女における“喪失感”について考察していきたい。
私は、私の今までの生活に、自信を失ってしまったのです。~『待つ』より
戦争が始まり、それまでのような生活が送れなくなっていく当時の人々が抱えていたであろう喪失感が、ここに表されているかと思われる。「この先、一体どうなっていくのだろう?」という不安や焦燥
結論-少女は誰を待っていたのか?〜太宰治「待つ」について 第十五回
さて、今回はいよいよ “少女は誰を待っていたのか?”という最初の命題に結論付けをしたいと思う。
はじめ、私はその“誰か”を“救い”とした。しかし、それでは佐古純一郎氏が指摘する“人格性”が説明できない。そこで私は様々な視点について考察してきた。
“待つ”という行為そのものについては、信じてさえいれば希望だけが付き纏うものであるとした。
これは太宰さんと檀氏の熱海での出来事や、そこから派生し
春を待つかの如く〜太宰治「待つ」について 第十六回
“少女は誰を待っていたのか?”
前回、この長い文章の最初の命題に、私は“少女自身”であると結論づけた。今回はその結論に肉付けを行っていくこととする。
少女が待っていた“誰か”とは人格性を持っているという点であるが、これは言うまでもない。少女自身は人格性を持っている。ところが、ここで別人格の“少女自身”であると考えると、この作品が急にSF的なものになってしまう。もちろん、そうではない。こ
個としての存在意義〜太宰治『待つ』について 第十七回
“少女は誰を待っていたのか?”
この長い文章の最初の命題に、私は“少女自身”であると結論づけた。今回も、その結論に肉付けを行っていくこととする。
本作の少女は、戦争が始まってから、いままでの自分に“喪失感”を覚え、そこに“罪の意識”と“使命感”を抱いた。そうして、省線の小さな駅の冷たいベンチに座るという行為に至る。それは“喪失感”を充たすべく“新しい自分に”出会うため。すなわち、それは
作家としての再生〜太宰治『待つ』について 第十八回
省線の小さな駅のベンチに座り続ける少女。その姿はさぞかし愚かしいものと映ったことであろう。しかし、その行為は彼女にとって“新しい自分”との出会いを待つものであり、彼女自身の“存在意義”を示すものであったと、前回までで述べてきた。今回は、太宰さん自身の愚かしい行為と、それによってもたらされたものについて論じていきたい。
太宰治について語られる時、多くの者は“自殺”や“自殺未遂”に目を向けがちであ
新たな自分としての再生〜太宰治『待つ』について 第十九回
さて、いよいよ、この長い文章も幕を閉じようとしている。私は本作『待つ』において、少女が待っていた“誰か”とは少女自身、すなわち“新たな自分”であるとした。
戦争が始まり、少女はいままでの自分に対して“喪失感”を覚える。そして何もできない自分に“罪の意識”を覚え、自分にできる何かを求めるという“使命感”を抱くのである。その結果、少女は毎日駅に赴きベンチに座り続けるという、他人からすれば滑稽で愚か