この世(三次元世界)に理想的な世界は存在しない
究極の生命体も存在しません。
「宇宙人こそが究極の生命体だ」という観念に囚われている人は少なくありません。確かに、宇宙人が存在しているのであれば、それは地球の生命体より数十億年の歴史を持つ、人類より遥かに優れた生命体であることでしょう。
しかし、その宇宙人といえども、所詮は、三次元世界の生命体にすぎません。ここが分かっているようで、分かっていない。
三次元界を超える四次元界が存在していることが、はっきり言って、まるで分かっていない。
四次元界と三次元界は全く異質の世界です。
そして、我々は肉の中に四次元界の卵を宿しています。卵なので、完全な四次元体ではない。それゆえ、私はその生命体を三・五次元体とみなしています。
その正体は、その人の魂であり、潜在意識と呼ばれるものです。
一般に、顕在意識と潜在意識は同列に扱われていますが、実は、全く異質の存在なのです。なぜなら、顕在意識は三次元物体であり、潜在意識は三・五次元体だからです。ここを理解できていないで、潜在意識について語るのはよろしくないのです。
ヒトの肉体(顕在意識)は、三次元体なので、いつかは必ず消滅します。
そのとき、あなたの魂(潜在意識)は肉の支配から脱して、完全な四次元体へと昇華して、四次元世界へと帰ってゆきます。
しかし、肉体を有している限り、人はこの世で生きねばならない。
そして、この世では、必ず、他者の利益、労働にタダ乗りする利己的な個人が生まれる。この世とは、そのような、「生物的にずる賢い世界」なのです。
但し、「何と不条理な世界なのだ」と怒っても、それは筋違いというものです。何の解決ももたらさない虚しい怒りにすぎません。ほぼ、徒労に終わる、ほぼ、単にエネルギーをロスするだけの無為な感情にすぎません。
ほとんどの人は楽して儲けたいと願っています。
あなただってそうでしょう。毎日12時間働いて20万円貰うより、投資や不動産で、毎日優雅に暮らしながら月に300万円入ってくる人生の方を願っているでしょう。多分、誰だってそのはずですし、そのような生き方こそが理想だと思っているかもしれません。
そして、人類世界は「存在しないコロナウイルス」の狂奏曲からお分かりいただけるように、「虚構(フェイク)」によっても操られている。操られることに反応的な違和感を覚えたり、抵抗感を感じるような「独立心」の強い、おおよそ生物比率30%以外の人たちは、ほぼ、簡単に操られる。これが人類世界の実態なのです。
「お金と性」の二大本能に踊らされる人たち、ホルモンに操られる人たち、自己都合を最優先させる人たち、支配者たちがちりばめる様々なフェイクに騙され続ける人たち。
これはヒトに与えられた、或いは、この世に与えられた属性なので、これを否定して生きるのは厳しすぎるでしょう。
例えば、お金に執着しないとボロを着て生きる仙人もどきになってしまうかもしれない。ホルモンの分泌が悪いとギスギスした枯れサボテンみたいになってしまうかもしれません。自己都合を封印してしまうとブラックの餌食になって骨の髄までしゃぶり尽くされるかもしれない。
フェイクを否定すると「マスク警察」のような、フェイク盲信狂信者の多くの人から迫害を受けてしまうかもしれない。まさに、この世は生きるも地獄、死ぬも地獄の救いようのない世界なのです。
なぜなら、この世は生物の世界だからです。
生物でありながら、人間として生きようとするとあらゆるところで生物人間たちとの間に軋轢が生じてしまう。この強烈無比なジレンマに対処するためにある種の奥義が確立された。その究極の形が「悟り(解脱)」です。
その概要を解説しているのが般若心経であったり、ヨハネの黙示録を含む新約聖書であったりするのですが、はっきり言って、この手法で救われる人は、いません!
絶対的な真理ではあっても、「救い」にはならない。
なぜなら、悟りを具現化できる人は如来以上の高格者限定だからです。もっとも、この世に転生して、この世で悟りを開いた如来でさえ、「完全な人格者になれるのか」といえば、そうはならない。
例え、三・五次元体である潜在意識体が解脱によって四次元体になったとしても、三次元の巨大な「本能と感情」の縛りを受けるこの世では、あの世におけるような完全体とはなり得ないのです。なので、「人格」という言葉を「人の性格」以外の高貴を示す用語として用いる人は、圧倒的な無知といえます。
人格とは、この世では存在し得ない理想形の一つにすぎないからです。
ヒトは悟りを目標とすべきではない。
ヒトが目標とすべきなのは自分の本体である潜在意識と繋がることです。次元が違うので、肉を持つ身では完全な三・五次元体にはなれないけれど、少なくとも、愚かで哀れな三次元現実を客観的に俯瞰することはできる。
三次元の影響は受けるけど、それに呑み込まれずに独立性を保つ三・五次元体と繋がることによって、初めて人は三次元の縛りを受けない自立性を確立できる。三次元の妄想に犯されることなく正気を保つことができる。
もちろん、完全ではないけれど、三次元から解放されるためには潜在意識とリンクされること以外に手立てはないのです。
例え、先に述べた稲盛氏の「利他の心」を意識に強く刻み付けたとしても、利他がWin-Winレベルに堕してしまうのは時間の問題であるからには、この方法は打開策や修正案になり得ても最終的な改善策とはなり得ない。
生物の世界に安寧はない。
お金と健康など、常に生命線を脅かされ続ける競争社会に安寧とか平穏などがないのは常識です。
仏陀が説いた、この世という混沌の世界に生まれる苦悩、老いて行く苦痛、病がもたらす苦痛、死の恐怖がもたらす苦悩、愛する人たちとの別れに生じる惜別の苦痛、嫌いな人たちと出会う苦痛、求めるものが得られない苦悩、五感が覚える様々な苦悩。
四苦八苦の世界。誕生も死も、老いることも病すらないあの世に比べると、どうしょうもない苦痛と苦悩に満ちあふれた世界がこの世なのです。
こうした苦痛と苦悩に押しつぶされ、性格さえ歪めてしまった多数の人々が蠢く世界ともいえます。どうしょうもなく面倒臭い世界なのです。
こうした苦痛と苦悩をもたらしている根源的な原因は、「ヒトが生物として生きざるを得ない世界」に見い出すことができます。
しかも、ヒトに幸福感を与える諸々のホルモン(フェロモン)は、刺激に反応して分泌される物質なので、刺激が薄れると共に、自然と幸福感も消え去ってしまいます。
幸福感は砂上の楼閣にすぎない。
なので、幸福を追い求めるという行為も虚しさの一つといえることは、既に、メーテルリンクが『青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』という童話の中で明らかにしていることです。
幸福感とはただの刺激にすぎないので、基本は、心穏やかに平凡な生活を積み重ねている間に感じる、わずかな、少しの刺激程度に考えておくべきなのです。
こうした結果、人生における解決策はひとつしかないと実感できるようになるはずです。それは、「生物ではなく人間として生きる」です。獣臭が濃厚な胡散臭い世界の中で「人間(解脱したヒト)」として孤立せずに生きるにはどうしたら良いのか。
テーマはこれだけです。
誰が何を言おうと、何を書こうと、これ以外のテーマは見い出せず、これ以外は、生きるためにやらねばならない「些細な問題」にすぎないといえます。