この世とは弱肉強食の世界である
この世とは肉体(顕在意識)の世界であり、肉体そのものは生物として生きている三次元の物体である。分かりやすくストレートにいえば、「この世とは生物の世界である」ということです。
生物の世界である以上、光合成などの無機質を糧にして生きているごく少数の生物を除いて、何かを殺してその肉を食べ、或いは何かの屍である肉を食べないと生きてゆけない世界であるということです。
つまり、端的にいえば、この世とは弱肉強食の世界であり、それ以外の何物でもないということです。
ここが世の弱者にとって大きな問題になります。
だからといって、「弱者を返上して強者になる」ということは基本的に無理なことです。ここを理解していないと苦戦します。なぜ、弱者は強者になれないのでしょうか。それはそのような設定がなされているからです。
例えば、人類と同じように組織を形成して発展してきたアリでは、それぞれに役割分担が与えられています。兵隊アリには大きな体と大きな顎が与えられていますが、最初から兵隊アリとして生まれついたわけではなく、必要に応じて、通常のアリがフェロモン(ホルモン)とDNAの作用によって兵隊アリ化させられているわけです。
しかも、強い兵隊アリの数は一定に保たれている。兵隊アリの数が一定になれば、それ以上、通常アリから変換されないようにフェロモンの分泌が制御されます。つまり、武闘的強者の割合は一定の、しかも少数派に抑えられているのです。
強者はマイノリティ(少数派)であり、弱者こそがマジョリティ(多数派)である。それが、組織を形成して繁栄してきた種にみられる鉄則です。
但し、弱者だけでは組織を維持、運営することはできない。
なぜなら、弱者の欠点は意志決定機能の虚弱さや物事を貫徹できない無責任さに見い出されるからです。
現在の先進国の運営システムは、民主主義議会の上に最高意思決定者としての皇帝(大統領)が君臨するものになっています。皇帝制度を樹立させたカエサルが、ローマに百年の衰退をもたらした民主主義を「形骸であり、白日夢にすぎない」と断罪したように、民主主義という有象無象の弱者たちが群れる意思決定機能は効率性が著しく劣るために、「民主主義形式で運営される組織は必ず衰退する」という話になります。
民主主義は、最終的には「会議は踊る」と評されているように、「群れる混乱」を招くものでしかないからです。弱者が意思決定に加わるのはまずい。民主主義的外野として、見解を述べたとしても、所詮は、発せられた言葉に対して何の責任や決定の重さを持たない、ただの乱雑とした野次でしかない。
そうした無責任さが弱者というマジョリティの限界なのです。
意思決定は強者が下せばいい。
但し、意思決定後の運営は弱者に委ねなければいけない。
強者が常に、運営に口を挟むのはよろしくない。なぜなら、運営は定められたルールに従う弱者の任務だからです。そして、弱者は意見を述べるのではなく、意思決定に対しての賛否を表明するにとどまるべきです。
「然り、然り」「否、否」とだけ言うべきで、それ以上のことは「悪い者」から出る。なぜ、それ以上のことを言ってはいけないのかといえば、あなたは髪の毛一本すら白くも黒くもできないからであり、そのような決定力を持ち合わせていないからである。
これは、聖書に書かれている神の言葉です。
実に正しい言い分です。強者には強者の弱者には弱者の役割分担がある。この世とは、そのような階級システムになっている。そこに是非の問題は介入できない。
この世では、どの組織型生物でもそのようなシステムを採択している、というだけのことで、そこに「理想」などのくだらない意識の割り込む余地はない。そのように考えてゆかねばならないのです。
そして、ヒトにおいて重要なことは、「弱者は強者にはなれないが、だからといって、決して弱いわけではない」という事実です。
なぜなら、弱者は圧倒的多数派であり、運営者でもあるからです。
しかも、聖書に「力は弱さの中で発揮される」と書かれているように、或いは、世間で「ピンチはチャンスだ」と言われているように、逆境は人に奮起を促し、発展への力を与えるからです。
戦いから逃げる者や怠け者には縁のない言葉であるにしても、「弱さ」は「根源的な強さ」に転換できる力を備えているものです。
ストレスでさえ、ないよりあった方が健康になれることが分かっています。過度のストレスは自律神経を乱し、体調を崩す元になるので要注意ですが、「適度のストレス」は精神と肉体を鍛えてくれます。
逆に、過度に「快適性」を追求してゆくと、些細なことに反応しすぎて、ストレス過多になってしまいます。過ぎたるは猶及ばざるが如しなのです。なので、面倒臭いこの世では、万事において「適当」に対処してゆく必要があります。
どうあがいても、この世では「完全な快適性」を獲得することはできないからです。完全を手に入れることのできない世界で、完全を追求してゆくと奈落の底に堕とされてしまいます。
完璧主義者が常に非難されているのには、こうした理由が存在します。ゆえに、万事において「いい加減」であるべきなのです。「適当に生きてゆく」を心がければ、文字通りに融通の利く生き方を選ぶことができるようになります。
実際、この世では「本音と建前」が横行しています。本音だけだと、全く物事は回転してゆきません。それはそうですよね。人の考え方や感受性は、まさに千差万別で、絶対に完全合致することはあり得ないからです。
例え、「意気投合した!」といっても、それはパーツの話で、徹底的に本音を語り合うと、必ず、どこかですれ違いが生じてしまいます。本音と建前は、あって当たり前なのです。
これを分からずに稚拙な正義感を振り回す人や、自分の我を主張する人は、必ず、どこかでクレーマーやストーカーのような犯罪者に堕してしまいます。
大阪 北区のビルに入るクリニックが放火され、25人が死亡した事件で、死亡した谷本盛雄容疑者(61)がまさにそうですね。預金残高ゼロ、電話帳の連絡先ゼロ。極度に「我」を主張しすぎた人の成れの果てのように感じられます。
実に、迷惑極まりない人なのですが、それもこれも、「自分の言っていることが正しい」という完璧主義思考がもたらす弊害といえます。「本音と建前」を使いこなせない人や「巧妙な嘘」をつけない人は、性格破綻症という病気を患っていると自覚しなければなりません。
ですから、万事において、なんとなくいい加減に考え、決して思いつめないことが必要になります。所詮は、生物世界なのですから、そこに理想を詰め込むという発想自体が間違っているのです。ケセラセラ、なるようになる。これが全ての考え方ではなく、基本の考え方として、後は「自分で考える」を実践してゆくと、「察しと物わかりの良い人」になれます。
この記事は『気功の本』に書く予定の「気功の必要性」を説明するための文章です。気功の重要性を知るための予備知識(この世の正体)は次のようになります。
第1章 この世とは弱肉強食の世界である
第2章 この世では理論と理屈は弱い力にすぎない
第3章 この世の生物の多くはホルモンとDNAに操られている
第4章 この世とは暴力なくして生きてゆけない世界である
第5章 多くの人は霊魂との付き合い方を知らない
note関連記事