人は知の永久機関 with 旅
深夜4時,こんな時間に綴る文章はおかしなものであると決まっている.
私は来春の大学院進学を控えた大学4年生である.今の時期は,大抵の世の中の大学生は春休みを迎えており,私も最後の大学生の春休みを過ごしている.
これから就職する人も,院進する人も,恐らく自由を謳歌できる長い最後の休みなのかもしれない.
もちろん,この先の将来,長期休みがとれないとは限らないし,無職になることだってあるかもしれない.そして老後もある.
だが,しかし,こんなにも無責任で自分のことしか考えなくていいといい休みというのは最期かもしれない.大学生になり長期休みは幾度となく経験したが,卒論から解放され卒業も決まったおかげか,自由という実感が体を駆け巡る.こんな無責任で楽な大学4年生春休み,みんなは何をしているのだろうか.
たぶんだけど,多くの人は旅行を楽しんでいるのではないだろうか.
私も,そのひとりであり,卒業旅行はもちろんのこと,ひとりきままま旅行も計画している.
私は比較的,旅行が好きな人間だと思うのだが,私自身は旅行に何を求めているのだろうかとそんな疑問が寝れないベットの上で頭をよぎった.
こんな疑問をもったのは,私が春休みに青春18きっぷで長距離旅行の計画を練っていたからではないだろうか.
宮城にいきたいという揺るがぬ意志があり,それを実現させるために頭を悩ませていた.そしてやっと,3泊4日で行って帰るプランを立てれた!
だがしかし,これでは観光する時間がないな,,,うーむ,でも本旅行では観光ではなく電車移動を楽しむ目的な気もするしな,,,いやーでもいろいろと調べていると観光したくなってきた,,.ってか,1日10時間とか列車乗ってそれを3日,4日するって正常な精神保てるのか?我慢しだしたらそれは楽しい旅行なのか?
ってか,本旅行は楽しむためなのか,もしかして長距離旅行をすることによる己の鍛錬を目的としているのか?
といった,楽で楽しい観光たくさんするVS己を貫く多少の我慢はしような
という対立する2つの観光像が現れたのであった.
難しい話である.その2つの観光像が現れたことによって,また疑問が生まれたのである「旅行とはなんぞや」と.
これは,誰かと行動をともにする旅行であれば,いとも簡単に答えが出せる.思い出の共有,長時間ともにいることでの親密度UPといったところだろうか.仲いい人とであれば,正直どこにいっても楽しいのである.
では,一人旅行は,何を目的にしているのであろうか?
自身の経験からする答えとしては,旅行欲の解消があげられる.これは卒論におわれていたときに抱いた欲である.目の前のことにとらわれると,心と脳を開放し別の楽しいことを考えたく,いや何も考えなくていいくらいに癒されたいという気持ちから生じる欲である.また,単に行きたい場所があるが,その場所に興味を持ちそうな人が自分以外にいないという場合もあるのだろう.
一方で,快楽を得ることを目的としない旅もあるのかもしれない.ことわざで「かわいい子には旅をさせよ」というのがある.このことわざ上の「旅」はレジャーの旅ではなく,世の中のつらさを経験するという意味であるそうだ.
現代では,一般的に旅=娯楽,楽しいものと思われるが,想定外のことを乗り越えるというイベントもよく存在するし,ハプニングは旅行の醍醐味であると考える人も多いだろう.甘い快楽の中にある非日常のちょっとしたスパイスである.
それを加味すると旅=娯楽+意外性なのであろう.この意外性は日常的な娯楽であるカラオケやゲーム,漫画やアニメ鑑賞などにはない要素だろう.
要素の中にはあるが,その要素を覆う媒体にはそれはない.
実際に多くの人間は非日常を求め,旅をする.
それを踏まえて,青春18きっぷでの列車旅は,実は旅の最高峰なのかもしれない.旅を旅だと認識させる,移動がメインだからだ.行きたい旅行地を思い描いて,目を開けたらそれが存在して楽しめる.夢のような話だが,果たしてこれは旅行といえるのか?いや,これは旅行というよりも幻である.千と千尋の神隠しで,急にあの屋台が現れる,あれは幻というか現実世界ではない.きっと,旅行は移動という現実があるからこそ,旅行地での見慣れない非日常があるんだと思う.現実の先の非日常.
旅行での移動が旅行を認識させるのであれば,正気の沙汰ではないほど乗り続ける青春18きっぷの旅は,旅行の真骨頂なのかもしれない,
まあ,そんなにも旅に向かい続けていたら,いやでも「旅とはなにか」がわかる気はする.
眠たいので,終わりたいのだけど,なんでこんなことを考えていたのかといいますと,,,
卒論終わって,ただ何もしたくなくてYouTubeやアニメという手軽な娯楽で脳を溶かし2週間ほどたち,そろそろ勉強とかしないとやばいな,戻れなくなりそう,,,などと思っていた.そんな夜中に,急に頭がしだしたのだ,,
脳というブラックホールに,数多の言葉,考えがちりのように浮かんでは消えを繰り返す.今まで雑多に,吸収された情報を吐き出すように
インプットしすぎて,漏れでた何かの一部だった.
なんかおかしくなっちゃって,とりあえず外に出さなきゃといそいそとパソコンを開いた.
そして思った,「人は知の永久機関」だと.外にアウトプットすれば,誰か第三者が反応しインプットをくれる.また,こんな文章であれば自分の中の客観的な目が読んで,「なんだこの表現」「文章きもちわるくないか」などと文章を定めたり,自分こんなこと思ってんだーという感想をくれる.
人間は主観的な目,客観的な目を持ち合わせているから,生きているだけでインプットしているしアウトプットしているのだ.
卒論でアウトプットしすぎて,かすかすな脳と心には数多の情報が染みた,そして2週間の情報のつけ置きで,とうとう染み出てしまったのだ.
このように人間はインプットの限界量もあるし,アウトプットの限界量もあるが,生きている限りインプットとアウトプットし続ける知の永久機関だということが言える.まるで血液が体中を流れているように,知も体中を駆け巡っている.摂取する食べ物や生活習慣をかえることで,体に流れている血が変化するように,体をめぐる知もなにを取り入れるか,そしてどのように取り出すのかによって大きく変わるのであろう.そういう意味では,noteに頭の中に沸いている知を文字を連ねるというのは,献血みたいなものなのか,,実際に献血によって新しい血が作られ,健康にはいいみたいな話はきくしなあ
人間,知の循環をもっと意識していいのかもしれないそう思った.
眠いので,ここで終わります.
旅の情報は摂取するものとしては,新鮮で間違いなく良いものでしょう.
おやすみなさい